The education of the child
育児ノイローゼの問題
ニブルヘイムという村のちょっと外れの高台には、神羅屋敷と呼ばれる大きな家がある。
つい半年ほど前までは神羅製作所の科学部門が占領していた施設だが、人体実験をやっているのではとの噂（事実だ）が広がり、縮小撤収せざるを得なくなったのだ。
その屋敷に残されたのはヴィンセント・ヴァレンタインという男だった。人体実験を施されたひとりである。怒りやストレスが溜まると変身してしまう身体を持っており、本人もちょっと気にしていたりする。
今日も今日とて突発的に変身したくなり、あちこちにビーストフレアを炸裂させて、屋敷の住人たち（ファニーフェイスなど）をびびらせていた。
とりあえず変身を解き、すっきりしたヴィンセントだが、暗い神羅屋敷を見まわしているうちに再び頭が重くなる。
やはり髪型がいけないのかもしれない。ヴィンセントはミラージュをひっ捕まえ、その鏡に自分の姿を映し、身だしなみをチェックした。鬱陶しく伸びた髪の中に顔がある。それにしてもこの髪は、どうしてこんなに伸びてしまったのだろう。宝条に撃たれて人体実験を施された直後にはもう、こうなっていたのだ。あの科学者は長髪が好きなのかもしれない。
ああ、あの輝かしいタークス時代、私の青春を誰か返してくれ。あの頃は髪も短く、きっちりとネクタイを締め、糊の効いたワイシャツに黒いスーツはぴったり似合っていたというのに。いまでは、そんなものを着た日には、ミズ・ストライフあたりがパニックを起こし、得意の蹴り技も忘れて殴りかかってくるに違いない。
ヴィンセントはミラージュを放すと、疲れた足取りで屋敷の地下へ戻った。
もともと宝条の研究室、兼書斎だった部屋は、いまは子ども部屋として使われている。子どもをヴィンセントの棺桶の置いてある部屋に寝かせておいてもよかったのだが、ときどきうるさく泣くので、すぐにポッドの中に閉じこめることができるよう、この部屋に転がしておくことにしたのだ。宝条やらガスト博士やらが残した、神羅の最高機密とも言えるレポートが散乱しているが、構わないだろう。まだ文字が読めるような年齢ではない。
セフィロスという名のその赤ん坊は、いまだおすわりも自力ではできないほどで、はいはいも中途半端だ。言葉も、「あー」「うー」しか使えないので、コミュニケーションはほとんど取れなかった。そのくせ、サンダガだのフレアだのぶっ放してくれるのだ。もっとも、アルテマはまだマスターしていないらしい。
そのセフィロスは、ヴィンセントが部屋を出る前、実験台の上に寝かせておいたはずが、床に落ちていた。仰向けに転がったまま、「気がすんだか？」というような碧(あお)い目でじろりと見あげてくる。
ヴィンセントは赤ん坊を見おろした。
長い沈黙の時間が過ぎ去ったのち、見つめあうのにも飽きたのか、セフィロスが身じろぎする。うんうん唸りながら、身を捻り、捻り、捻り……
ころん。
うつ伏せになった。
器用なものだ。ヴィンセントはちょっと感心した。
「うう、むううううう」赤ん坊は唸り、やがてひくひくと泣きはじめたかと思うと、ぎゃあぎゃあとうるさく喚き出した。もちろん、あたりには雷や吹雪が湧き起こりはじめる。
仕方がないので、ヴィンセントは仰向けになるように転がしなおしてやった。
セフィロスの泣き声はぴたりとやんだ。雷も吹雪もやんだ。
どれ、そろそろミルクをもらってこねばならん。ヴィンセントは腰をあげかけた。
ぐぐぐ……ころん。
セフィロスが再びうつ伏せになる。
ふんぎゃああああ。
ああ、うるさい。ヴィンセントは、今度は足で蹴り転がし、体勢を直してやった。
ぐうん、ころん、ふぎゃあ。
なぜこうも、同じことを繰り返すのだ、このイカ頭め！
セフィロスは、直しても直してもうつ伏せになった。それも必ず右に寝返りを打ち、同じように窒息しかけるのだ。
くっ、こうなったら、しばらく息の根を止めておくか……？ ヴィンセントはなかば本気で、この泣き声を永遠に止めさせる方法を思案していた。
いや、ほんのわずかでいいのだ。ほんのわずか、この自己主張の激しい泣き声を聞かずにすむのなら……この赤ん坊に、右に寝返りを打つことに対して恐怖を与えられれば……。
「ちょっとあんた、なにやってるのよ」
はっとして、ヴィンセントはセフィロスの首を掴んだまま肩越しに振り返った。
乱れ飛ぶ雷鳴や荒れ狂う風雨のなか、ミズ・ストライフが大股に部屋を横切ってくるところだ。この地方には珍しい金の髪をしたご婦人で、はしばみ色の目、睫毛も長く、ぱっちりしたかなりの美人だ。だがなぜか、セフィロスの魔法はこのご婦人をよけて乱発されているようだった。彼女はまっすぐ、なにものにも妨げられず、ヴィンセントのそばまで近づいてくる。
彼女はまずひと蹴り、しゃがんでいたヴィンセントの後頭部に踵をめりこませ、その手からぱっとセフィロスを取りあげた。「いくら役に立たない赤ん坊だからって、虐待はだめよ、虐待は！」
ミズ・ストライフの踵を載せたまま、ヴィンセントは直前までの自分の行動を脳裏で反芻していた。
虐待……そうか、虐待だったのか。私はなんということを……また罪を犯すところだった。
いやいや、もしかしたら、ここで息の根を止めておいたほうが世界平和のためだったかもしれない。こいつがこのまま成長したら、きっと飽きもせず同じ遊びを繰り返すに違いないのだ。ファニーフェイスを玩具にするぐらいならともかく、着せ替え人形を欲しがったらどうする？ もしくは究極の黒魔法を詰めこんだマテリアとか。
鬱々と将来についてヴィンセントが悩んでいるあいだに、ミズ・ストライフはおんぶ紐を取り出し、てきぱきとヴィンセントのマントの上からセフィロスを括りつけていた。赤ん坊はすでに泣きやんでいる。
「しょうがないから、ちょっとうちに来なさい。あんた、育児に疲れてるのよ」ミズ・ストライフはぶつぶつ言いながら強引にヴィンセントを立たせ、部屋の外へと押し出した。
それでも、ヴィンセントはいろいろなことをぐるぐると考えこんでいて、自分が眩しい陽光のもとに押し出されたことにも気がつかなかった。
はっと我に返ったのは、彼がニブルヘイムの広場をかすめ、一軒の小さな家に蹴りこまれたときだ。
そこはストライフ家のささやかな居間(リビング家)だった。
リビングといってもキッチン・ダイニング一体型だ。キッチンのわきには土間が続き、ついでにベッドも部屋の隅にかたまって置いてある。ようするに、この家には広いひと間しかないのだ。
そしてヴィンセントの目の前には、やや老齢にさしかかったといった年齢とおぼしき夫婦が立っていた。彼らはそろって、じっと無表情に彼を見あげてくる。
「あたしの両親よ」ミズ・ストライフが、ヴィンセントの背中からセフィロスをおろしながら紹介した。「お父ちゃんもお母ちゃんも初めてでしょ。お屋敷の幽霊よ」
「興味ないね」というのが父親の挨拶だった。「知らないね」というのが母親。
「それでね」とミズ・ストライフは、あまり頓着もなく話を続けた。「この幽霊、どうやら育児ノイローゼなの。そこであたしってば、気分転換させてやろうと思いついたというわけ」
夫婦はまだヴィンセントを見あげていた。
「だから」とミズ・ストライフは、母親の背にセフィロスを括りつけている。「しばらく子守りをよろしく」といつのまに荷造りしたのか、屋敷から持ってきたらしい粉ミルクと紙おむつの山をどっさりと彼らのわきにおいた。「あたしはこの幽霊を連れて、ちょっと旅行してくるわ」
「旅行？」ヴィンセントはびっくりしてミズ・ストライフを振り返った。
同時に夫婦がやっと彼から視線を逸らす。
「そうよ、旅行」ミズ・ストライフは、ぱっとヴィンセントの手を取る。「こういうときはね、じいちゃんばあちゃんに赤ん坊預けて、ショッピングでも楽しむのがいちばん。さあさあ、五泊六日、コスモツァー。ちょうどペア招待券が当たってたの。行くわよね？」
ヴィンセントは彼女をじっと見おろした。「もしかして、屋敷に来たのはそのお誘いのためか？」
「本当は坊やを誘うつもりだったの。この坊や連れてると、途中で出くわすドラゴンだって一撃必殺で退治してもらえそうだもん。でも、あたしがやられてもアレイズはかけてくれなさそうだし、まだ喋れないから退屈しそうだし、それに、あんたがそんな調子じゃね」
……そして彼らは旅立った。
結局、ミズ・ストライフが旅行したいがために、育児ノイローゼの問題をだしにされたのだとヴィンセントが気づいたのは、ニブルヘイムに帰ってきてからだった。