１
通りむこうの未亡人は朝から部屋をきれいに片づけ、家具類の埃を払い、床にモップをかけ、窓ガラスをぴかぴかに磨き、カーテンを新しいのに取り替え、客人が泊まったときのために寝室のシーツをおニューの薔薇模様に替え、トイレの芳香剤も石鹸の匂いから薔薇の香りに替えた。
もちろん自身の身体も髪も顔もごしごしと洗って乾かし、時間がないので美容パックができなかったのは残念だけど、毛穴すっきりパックはしっかり終了している。顔には化粧水に乳液、保湿クリーム、身体全体にフラワーコロンの入った制汗パウダーをまんべんなくはたき、お肌のお手入れもばっちりだ。そしてへたばっていた巻き毛を、無香料のムースをたっぷり使って、くっきりつややかはずむ髪に整える。最後はぱふぱふと化粧し、オレンジの口紅とベージュのアイシャドー、頬紅は薄く刷いて若さを演出。でも、ブラウンのマスカラはちょっとつけすぎたかしら？
まだ約束の時間までに数時間あった。それでも彼女は、いまからそわそわしながら玄関のチャイムが鳴るのを待っている。
ああ、今日こそ……いえ、今日も結局だめかもしれないけど、可能性には賭けたいわよね。夫を亡くし、子どももなく、孤独な独身生活、早ン十年。これまでどんな殿方にもときめいてはこなかったというのに……。
黒コートの似合う素晴らしい長身、流れる銀の髪、切れ長のうっとりするほど魅惑的な碧(あお)い目。唇は凛々しく結ばれ、すらっとした鼻は高く、声は……ああ、あの声ときたら！
「セフィロスさま……」彼女はついに溜息とともに彼(か)の人の名前をうっとり呟いた。
と、チャイムが鳴る。
彼女は時計を見た。約束の時間にはまだ二時間ほど早い。
まずいわ。ここまで力を入れておしゃれをしたところを近所の奥さん連中に見つかったら、根掘り葉掘り理由を訊かれるに決まっている。だいいち、宅配便のお兄ちゃんにお手軽に見せるためにお化粧したわけではないのに。
再びチャイムが鳴った。
どうしましょう。居留守を使うべき？
さらにチャイムが鳴る。
もう、しつこいわね。
仕方なく彼女は玄関に向かい、ドアをあけた。
そこに立っていたのは長い銀の髪をした黒コートの男だった。
彼女はぽかんとしてしまう。
「修理依頼があっただろう」彼はくぐもった声で呟くように言った。
「ええ、はい、そう」彼女は頷いてから、はっと我に返った。「ごめんなさい、あんまり早いものだからびっくりしちゃって……いらっしゃい、セフィロスさん。どうぞお入りになって」
セフィロスは遠慮なく玄関をくぐってきた。黒コートの裾がかすかに揺れ、その銀の髪がふわっと……。
？
ドアを閉めながら、彼女は妙な違和感をおぼえた。くるりと振り向き、居間のほうへと進んでいく長身の男の背中を見つめる。
長身……というか、あら？ 少し背が縮んだかしら？
彼女は彼のあとをついていきながら、しきりに違和感の正体を探ろうとしていた。
なんか、歩きかたが……ブーツが新しい？ コートもなんだか買ったばかりみたい。いえ、普段の彼が、どこぞの刑事みたいにぼろぼろのコートを着ているというわけではないのよ。ただ、彼の黒コートは身体の一部みたいにすごくよく合っているというか……でも、いちおう、わたしよりは背は高いし、だいたい、あの長い銀髪は確かにセフィロスさまよね。
その銀髪はセフィロスが歩くたびにふわふわと頼りなげに揺れ、彼がオーディオセットのある窓辺に近づいたときには、カーテンのほうへと誘われるように毛先が浮きあがったものだ。
……静電気？
彼女ははっきりと顔をしかめた。そんな……あのセフィロスさまの髪に静電気？ まるでナイロンテープを広げて櫛で無理やり梳いたみたいに、そのばちばちした髪はいったいどうしたこと？
「これか」とセフィロス（？）はオーディオセットを睨みつけた。「こういうものは殴れば直るんじゃないのか」
えっ？
彼女がまばたいているあいだに、彼はどんと拳をその機械の上に落とした。どこもへこんだり壊れたりしなかったが、かすかに、みしっ、と弱いプラスチックの部分にひびが入ったような音が聞こえた。
セフィロスさまがそんな……。彼女は本格的におかしいと思った。いつもなら、どこも壊れていないはずのオーディオセットの前にどっかりと坐りこみ、あれこれとスイッチをいじって満足するまで機械と語りあい、数時間後に、「どこも異常はないようだ」と言って去るのが彼なのに。もちろん、今日のオーディオも、どこも異常はない。ただ単に、彼女が彼に会いたかったから病気のふりをしてもらっていただけだ。
「あの、どうかなさいまして、セフィロ――」
彼女が声と手を彼の背中にかけようとしたとき、ばちっと髪の毛に帯電していた静電気が彼女をブロックした。
短く悲鳴をあげて跳び退がった彼女の視界の隅で、一瞬、オーディオの周囲に稲妻めいた光が走るのが見えた。
そして、ぼんと破裂したものだ。ぴかぴかだったオーディオは、薄く煙を吐いたあと、完全な沈黙状態になった。
……いったい、なにをしたの。
「ふむ」とセフィロス（？）は満足げに頷いた。「これはもう、寿命だな。買い換えるしかあるまい」
「えっ？ 先月買ったばかり――」
彼女の声を無視して、セフィロスはくるりときびすを返した。「というわけで、俺の仕事はもうないはずだ。ではな」
そうして彼女のわきをずんずんと、新しいブーツに靴擦れを起こしているようなぎごちない歩きかたで彼は玄関へと去っていった。
彼女はぷすぷすと煙をあげている新しいオーディオセットとともに取り残されてしまったのだ。
どれほどの時間、茫然と哀れな機械を見つめて立ちすくんでいたことだろう。やがて、彼女の耳にまた玄関のチャイムの音が飛びこんでくる。
彼女はのろのろと足を運び、ドアをあけた。
そこに立っていたのは長い銀髪をした長身の黒コート姿。
「なんでも屋だ」と彼はむっつりと面倒臭そうに告げた。
彼女は彼を見あげ、そしてなんでまた来たのかという疑問が湧きあがってくるよりも前に、つい先刻、彼女のオーディオが一撃死した一部始終のイメージが脳裏によみがえってきたものだ。
「いいえ」ときっぱり彼女は言った。「いいんです。今日はもう、お引き取りになって」
そして銀髪のなんでも屋がどんな顔をしているかも見ずに、彼女はぴたりとドアを閉じたのだった。
＊＊＊
「あら？」双子の母親はドアをあけてきょとんと彼を迎えた。「早いわね。わたしが買いものに出る夕方からでよかったのに」
「いや、ほかにも仕事入ってて」金髪の少年は珍しくも俯きかげんにもじもじと呟く。「だめか？」
「べつに構わないけど……わたしが早めに買いものに出ればすむことだしね」彼女は少年を家の中に招き入れ、玩具の散らかったリビングを素通りして子ども部屋のドアをあけた。「いまはお昼寝してるけど、もうすぐ目が覚めると思うから、よろしく」
少年が彼女の前を通りすぎるとき、ふわっとかすかな芳香が鼻に突いた。彼女はちょっと小首を傾げ、ひょこひょこと子ども部屋のほうへと歩いていく少年の後ろ姿を見つめた。
クラウド君って、いつも整髪料つけてたかしら？ 大抵、なにか匂いがしても石鹸の香りぐらいだったのに。
でも、考えてみればあの子もまだ若いんだし、おしゃれしないわけもないものね。ちょっとつけすぎじゃないかとは思うけど。
とにかく、彼がいてくれるあいだに出かけてこなくちゃ。
彼女はばたばたと支度を終え、買いものに行った。そのくらい、子どもをいっしょに連れていけなどと責めないでほしい。母親だって、たまにはひとりで街を歩いて楽しみたいことだってあるのだ。
そしてありがたいことに、ダウンブリッジのなんでも屋は普通に子守りを頼むよりも遥かに安い賃金で引き受けてくれた。しかも、クラウド君が相手だと、賃金どころかパンやお菓子のごほうびですませてくれることもしょっちゅうある。
さて、今日はなにを持っていってもらおうかしら。クラウド君はなんでもおいしそうに食べてくれるから、おみやげも渡しがいがあるのよね。
彼女は買いものを充分に楽しんだあと、人気の和菓子店で栗饅頭をどっさりを買いこみ、ジャガイモと玉ねぎのあいだにその袋を押しこんで帰路に就いた。
しかし、帰ってみれば家の玄関は鍵がかかっておらず、リビングには誰もいない。いつもなら、きゃっきゃと興奮した笑い声と、クラウドの、「お帰りなさい」の声があるものだが、今日はなぜか子ども部屋からぐすぐすと泣き声が漂ってくる。
彼女はどこかサスペンスな気分を味わいながら、そろそろと奥の部屋を覗きこんでみた。
子ども部屋はカーテンがぴっちりと引かれて薄暗く、床にはおむつや哺乳瓶、プラスチックの子ども用ランチプレートやビニール絵本などが取り散らかっている。
そして双子たちはシーツでぐるぐる巻きにされ、ベビーベッドの枠に吊るされていた。
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