１
ジュリアは胡散臭げにその男を見あげた。
化粧と香水の匂いで充満しているこの控室、大きな鏡の前に坐っている彼女はステージを終えて戻ってきたところだった。正直に言って、かなり疲れている。
彼女の歌う《Eyes on me》がラジオ電波に乗ってからこちら、レコード会社や芸能プロダクションなどからのひっきりなしの接触が、彼女の歌にさえ疲労を及ぼしていた。今夜も客がいると聞いて、彼女はうんざりと溜息をついたものだ。
しかし頭から断わるつもりで通してもらったその男は、思いもよらなかったことを申し出た。
これからしばらく、あんたの身辺警護をすると彼は言ったのだ。
ジュリアは軽く首を振った。「申しわけないけど、わたしに護衛が必要だとは思えないわ」
「あんたの意向は関係ない」男は人好きのする笑顔をしながら、だがきっぱりと言った。
彼は黒い長髪をぞんざいに撫でつけ、がっしりした体格に、なんの冗談か大きな剣を背負っている。どちらかといえば細身だろうが、剥き出しの二の腕にはしっかりした筋肉が乗っているし、背丈も充分にある。しかもかなりの二枚目だ。
目は深い青。角度によってときおり違った色にも見えるそれは、とても印象深いとも言えるだろう。
彼はその目でウィンクし、親指で自分の顔を指し示した。「あんたがおれに契約金を払ったわけじゃない。あんたを守りたいってえ御仁が、おれの契約主。オーケー？」
ジュリアは溜息をついた。いったい、どこの物好きかしら。人気歌手のまわりに異常性尾行者が出没するのはよく聞く話だが、その影も形もないのに、なぜ護衛が先に来るのだろう。そもそも誰が彼女の生命をそこまで気にするのか。「そのかたのお名前を教えてくれないんでしょ？ わたしから断わろうにもできないじゃない。あなたから伝えて、どうぞ引き取ってください」
「でもなあ」彼は肩を竦めた。「おれも金は欲しい。せっかくの大口契約だし、棒に振りたくねえんだよ」
「先ほどから契約契約と……あなた何者なの？」ジュリアは彼を睨みつけた。
「だから言っただろ、なんでも屋(ユーティリティ・マン)」
「なんでもできるかた(ユーティリティ・マン)なら、こんな場末のピアノ弾きにひっついてまわらなくても、いくらでも仕事はあるでしょ？」
彼は違う違うと手を振った。「万能じゃないんだよ、なんでも引き受けますっていうだけ」それから彼は身を屈め、ちょっと悪戯っぽく笑った。「要人警護からデートのお相手まで、なんでもやりますよ、レディ。最近話題の歌姫だと知ってりゃ、護衛じゃなく恋人になりたかったけどねえ」
「きちんと身なりを整えれば考えてあげてもいいわ」
「まじ？」
「嘘です」
彼は溜息まじりに天井を仰いだ。「とにかくよ、おれ、あんたの護衛をすることになったんだ。あんたがいやがろうが、うるさかろうが、そばにいなくちゃならないんだよ。となれば、ちっとは仲よくしといたほうが、おたがい気分いいだろ？」
ほんの少し柔らかくなった口調に、ジュリアはあらためて彼を見つめた。
人好きのしそうな顔に悪戯っぽい笑みを浮かべ、それでも心配げな色が混じっている。どこかご主人さまに構ってほしいと尻尾を振っている犬のようにも見えた。
ジュリアはゆっくりと手のひらをさし出した。「お手」
「ほい」ぽんと大きな拳を軽く当ててくる男。
彼女は思わず吹き出した。彼女の悪戯に調子を合わせたのか、本当に素直に出したのか、そのあたりはよくわからないが、ずいぶんとおおらかな人だ。
「わかったわ。寝室と浴室以外はどこにいてくださっても結構。ただし」と彼女は載ったままの彼の拳を撥ねあげ、その手の人差指を彼の顔に突きつけた。「あなたの契約主に、わたしが会いたいと伝えてください。こんな一方的なこと、ふざけるにもほどがあるわ」
「ごもっともで」にやにやしながら頷く彼。
「それで？」彼女は話を促がした。
「……それでって？」男は首を傾げた。
「あなたのお名前を伺っていません」ジュリアは苛々と続けた。「あなたのほうは、わたしのことを充分ご承知でいらっしゃるようですけど」
「ああごめん」首の後ろをこすりながら彼は苦笑した。「おれ、ザックスな」
「ファミリーネームは？」
「使わせてもらってるものならあるけど、このさい必要ないだろ？」
「………」やはり胡散臭いとしか言いようがない。
「そうだなあ……」彼は少し考えるように蛍光灯の並ぶ天井を振り仰いだ。「このご時世、家族なんて持たないやつはそこらへんにごろごろいるしさ。そういう事情、あんまり話したくねえし……いいだろ？」
「わかりました」ジュリアは溜息をついた。「では明日から、あなたがそこらへんをごろごろしていることは覚悟しておきます」
「いや、今夜からにしてくれねえ？」
「……ご勝手に」