UTILITY MEN

１

　彼は海の中で自由を満喫していた。
　いつ生まれたのか自分ではあまり憶えていなかったし、いつこの大海原に放り出されたのかも夢の中のようにはっきりしない。気がつけば彼はここにいたのだ。
　暖流が南から流れこみ、寒流がそれを押し出すようにすり抜けていく。魚がそれらの流れに乗って大量に出入りし、複雑に入り組んだ島々のあいだでいつも遊んでいた。
　昼の海は彼にとって、ぎざぎざの海底に満たされた宝石箱だった。青い水は陽光を透かしてきらきら輝き、その風景をひとり占めできることに彼は満足感をおぼえる。またときどき、彼は海面に出て眩しい空を見あげることもあった。お腹がすけば、魚たちは豊富に泳いでいるので調達するのは簡単だ。潮に乗って島のあいだをひとめぐりすると、すぐに何百匹も彼の腹に収まった。
　夜は夜で、やはり彼の世界だった。真っ黒な海から波間に顔を出せば、遥かに高い天井はいくつもの明かりを灯し、ミルクを流したような星のリボンがそこを横切っている。海の中は暗く、無音の世界だったが、水は優しいぬくもりをもって、いつも彼を包みこんでくれた。
　彼は自在に水の中を泳ぎまわっていた。彼を邪魔するものはなにもなかった。いくつもの脚を伸縮させ、流れに乗って高速で湾を横切ろうと、海底の岩に張りついて海草や甲殻類を体内に取り入れていようと、彼の自由を侵す存在はいっさい見あたらなかった。
　ただ。
　あの暗い澱みにあるものだけは別だ。
　彼は、一日に一度はそれを目にしていた。
　星型に切り取られたようなぎざぎざの形の海底は、よく見れば四角い石の羅列だったり、腐食した金属や、すっかり膨張したスポンジ状のなにかだったりする。
　それらの密集するその中心を、断層に沿って北から南へ、あるいは逆へ、長いあいだに大地が歪んでひずんだためにできた亀裂が走っていた。黒く稲妻のように横たわるそれは、その下になにがあるのか、闇によって隠されている。昼の光も、夜の明かりも、その澱んだ亀裂の奥深くには届かなかった。
　もとより深海だ。滅多に陽光が射さないのは確かだが、それにしても、その亀裂の周囲にはいっさいの生命の痕跡が見あたらなかった。黒々と抉られたようなその亀裂はしかし、ところどころ新しい岩の面を見せている。
　断層がずれるたびに、そのどこかが崩れ、長い長い年月をかけて亀裂をどんどん大きくしてきたのだ。
　いまも気泡がわずかに立ち、なにかしらの小さな異形の生きものが飛び出てきた。脚を四本、懸命に動かして、大きく口をひらき、尖った鼻先をがくがく振りまわしながら、それは無意識のように海面をめざしていく。しかしその距離はあまりにも長く、それはついに陽光を目にすることもないまま息絶えていくのだ。
　大抵、あそこから出てくるものはそうして海の藻屑となっていった。
　もしかしたら、あるいは彼もあそこから生まれたのかもしれない。たまたま、この水中に適応できる身体を持っていたために生き延びてこられたのかも。
　彼が自分というものに気がついたのは、そう遠い昔のことではなかった。それでも彼は、長いあいだどこかで眠っていたような気がしてならないのだ。だからおそらくは、あの深淵の中にいたのだろうとは思う。たぶん、ぼんやりと記憶にある穏やかで平和な眠りの日々はあの中でのことだろう。
　だが彼は、あそこに戻ろうとは思わなかった。ここだってずいぶんと過ごしやすいのだ。なにより太陽があるし、星がある、月もある。餌の魚たちは次から次へと潮に乗ってやってくるし、海藻類も豊富だ。
　暗いあの澱みの中になにがあるにせよ、彼にはもう、関係なかった。ただ、そこには近づかないようにしていればいいだけだ。
　見渡す限りの海原のなか、自由勝手に泳ぎまわることが楽しみな彼にとって行けない場所がある。それだけのことだし、またそれだけがちょっと不満だというだけのことだった。
　彼は生きていることが楽しかった。

＊＊＊

　白い波頭、白い雲、青い海にカモメは飛ぶ。
　ヨットはのんびりと水平線を横切り、漁船は埠頭でひと息ついて休んでいた。
　バラムの港は今日も平和。
　停泊している高速艇のそばでは大勢の学生とその他が集まって、その船に乗って出発する候補生たちと別れを惜しんでいた。正確に言えば、ひとりの候補生に群がっていたのだ。
　いやあ、クラウドがもてるとは思ってたけどよ。ほんとに老若男女問わずだよな。ザックスはセフィロスの背中に膝を載せながら呆れたようにその光景を見つめていた。
　ゼルやキスティスといったおなじみのメンバーはもとより、ガーデンの授業のないやつ、あっても抜け出してきたやつと、押しあいへしあいしながらここへ見送りにきている。学園には生徒間でトゥリーブF.C.(ファン・クラブ)というものがあると聞いたことがあるが、もしかしたらストライフF.C.も、どこかでこっそり、できてるんじゃないかってぐらいだ。もっともそういう集まりを作ったとしても、ひっそりと地下に潜伏しているだろうな。なにしろ、セフィロスとスコールという双璧がいるからよ。ばれたら命がない。
　で、そのスコールはかなり長いあいだクラウドをぎゅっと抱きしめていた。「本当はいっしょに行きたいんだ、クラウド」
「うんうん、わかってるよ。ちゃんとおみやげ持ってくるから、いい子で待ってるんだぞ」クラウドも暢気にぽんぽんと彼の背中を叩いてやっているものだ。本人は気づいてないようだが、もういい年ごろなんだし、子ども扱いしないでやりゃあいいのに。
「いいかげん離れんか！」ザックスの座布団になりながらセフィロスが叫んだが、誰もが無視した。いつものことだし。
「スコール！」あ、しまった、リノアを忘れていたな。
　彼女はふたりのあいだに強引に割りこんで無理やり引き離した。「いいかげんにしてよ、スコール。いっつも、いっつも、ひっついてるくせに！」
　まあ、まがりなりにも彼女としちゃあ、文句のひとつも言いたくなるよな。
　リノアはくるりと勢いよくクラウドに向きなおった。「クラウド、このさいだから言っとくけど」と深呼吸する。
　そして彼女は、がっしりと彼に抱きついた。「気をつけてね。おみやげなんかいいから無事で帰ってくるんだよ？」
「うん」クラウドは嬉しそうに彼女を抱き返した。すりすりと彼女の頭に頬ずりまでするもんだ。「やっぱり、こういうのって女の子のほうがいいな」
「ねえヴィンさん、あたしも」とザックスのかたわらで、セルフィがヴィンセントのマントをひっぱっていた。
　幽霊はいまだ暴れているセフィロスを踏みつけながら彼女を見おろす。「私はべつに出航するわけではないぞ」
「あ、そっか」そしてセルフィは意を決したようにクラウドに体当たりしていった。「ねえねえ、あたしも！」
「おいで、おいで」と気軽に応えてやるクラウド。いいんだけどよ、そんなふうにサービス過剰にしてると、こっちがつれえんだぞ。
「くらああうどお！」セフィロスがついに、ザックスとヴィンセントを乗せたまま根性で起きあがった。そしてそのままふたりを引きずり、一歩、また一歩とチョコボに近づいていく。「安売りをするなと、あれほど言っているだろうが！」
「ほらほら、あんたも来なってば」クラウドはセルフィを放しながら、セフィロスにもちゃんとサービスしてやった。
　ところが、いったんそうなると、しつこいのがセフィロスだ。
　いっこうに離れなくなった彼を、クラウドは強引に海へ放り出した。「時間ないんだから」と呟きながら、ヴィンセントにも、だきっ、としがみつき、ザックスにまで腕をまわしてくる。
　さらにゼルに、キスティスに、ちびも抱きあげ、その他大勢も、ねだられるだけクラウドは挨拶していく。どうでもいいが、なんか流れ作業にしてねえか、クラウド。
「おい」と、サイファーがチョコボ頭をひっぺがして不機嫌に呟いた。「俺はおまえといっしょに乗るんだ。挨拶する必要はねえ」
「あ、ごめん、間違えた」それからクラウドはぐるりとあたりを見まわす。「じゃ、そろそろ行こう。忘れてる人いないか？」
「普通は忘れものないかって訊かねえか？」ゼルがＴボードに寄りかかりながら呟いた。
「不安だ……」ザックスはそっと吐息をついた。
「なんだよ」クラウドがじろりと睨んでくる。
「いやあ、おまえを班長として判断仰がなきゃならねえサイファーとアーヴァインが、ちょーっと気の毒かなと」
「だったら、班構成をもっと考えなおせよ！」サイファーが両手を振りまわして叫んだ。「なんで高等部、一、二、三年とそろってて、一年が班長なんだよ、普通は俺だろ！」
「なんでぼくまでいっしょなのか、よくわからないんだけど」アーヴァインが心底不安げに訴える。
　甲板の上からシュウがぽんぽんと手を叩いた。「ほらほら候補生ども、さっさと乗船しなさい。ぐずぐずしてると減点するわよ！」
「けっ」サイファーが悪態をつきながらポントを渡っていく。「てめえみてえな新米教師が監督とはな。教員資格取ったばっかりで一人前の顔するんじゃねえや」
「態度悪いわよ、アルマシー候補生」シュウが腰に両手をやりながら彼を睨みつける。「本来ならあんたたち、夏までおあずけ食らうはずだったのを、こうやってわたしが面倒見てやってるんじゃないの」
「ほんと助かったよ」クラウドが続いて船に乗りながら言った。「おれの試験、教官の誰も引き受けてくれなくてさ。夏まで待ってたら、おれ、確実に進級できないもん。シュウがいてくれてよかった」
「てめえ、受かるつもりで言ってねえか？」サイファーがいやそうに顔をしかめる。
　結構仲よくやっていけるみてえだな。ザックスは陽光に目を細めながら、彼らが甲板の手すりのむこうに移動するのを見ていた。
「やれやれ」ヴィンセントがマントの中で溜息をつく。「進級などと、本当はあまりこだわっておらんくせに」
「そうか？」ザックスは苦笑した。「あいつ結構、真剣に学生やってるぜ」
　彼らの横でスコールも頷いた。「チョコボはきっと受かる。SeeDになったら俺の班にもらうつもりだ」
　ザックスもヴィンセントも、ガーデンSeeDのトップを見つめた。
「本気か？」とザックスが思わず呟けば、ヴィンセントも真摯に訴える。「あれらを引き取ってくれるというのなら助かるが、大丈夫なのか？」
「どういう意味だ？」スコールは見返してきた。
　キスティスがミニドラゴンを揺すりながら教える。「クラウドを手に入れた人には洩れなくセフィロスさん全員プレゼントよ。忘れてない、あなた？」
「忘れていた。どう始末しておくかな」スコールはかたわらの地面を睨みつけ、さっそく駆除計画を立案しはじめているらしい。
　離岸警報が鳴り、船がゆらりと大きく揺れると、やがてするりと港を離れていった。
「行ってくる」クラウドが甲板から身を乗り出し、手を振っていた。
　ああ、はしゃいじゃってまあ。元気なのも、いまのうちだけだろうにな。あいつまた、自分が船酔い体質だっての忘れてるんじゃねえか？
　応えて大きく両手を振っていたセルフィが、ふと動きを止め、ばんざいしたままザックスを振り返ってきた。「ねえ、ところでセフィロスさん、どうしたの？」
「どこかそこらへんで、ワカメといっしょに浮かんでいるんじゃねえのか？」ザックスは泡立つ海面を顎で示した。