１ 漂着
最初、目の中に飛びこんできたのは晴れあがった青い空と眩しい陽光だった。
バレットは慌てて身を起こし、きょろきょろとあたりを見まわした。ひび割れた地面では痩せた鳥が数羽降り立ち、乾いた泥のあちらこちらをてくてくと突つきまわしている。でこぼこの岩だらけの磯は灰色と茶色の縞模様に覆われ、水蘚の青黒い染みひとつ見あたらなかった。潮騒がノイズのようにうるさく耳にこびりついてくる。いっぽう、見晴らしのいい陸地には緩やかな丘が連なり、そのむこうは峻厳なぎざぎざの山脈(やまなみ)が空を縁取っていた。
まったく見覚えのない景色にバレットは身震いした。確かミッドガルにいたはずなのにと考えてから、すぐに運搬船での一件を思い出す。無意識に胸のあたりを左手でかきむしりながら、あの海の闇の中での出来事を反芻した。あの手も足も出ない水圧、瞬くオレンジ色の光と衝撃……それから？ あれからオレはどうしたんだろう。
「気がついたようだな」背後から声がかかり、バレットはぎくりとして振り仰いだ。金髪の若者が大きな剣を片手にぶらさげて、大股にこちらへ歩いてくるところだ。
「ここはどこだ？」バレットはよろよろと立ちあがりながら訊いた。塩水で洗われた喉はからからに渇いており、奥にねばつくような異物感がある。かすれた声を戻すため、咳をひとつしてみた。さらにもうひとつ息んでから、彼は顔をしかめて足踏みをする。靴の中は湿っていて、ずくずくと不快な音を立てた。足の甲から足首にかけて鈍い痛みがじんわり沁み出したが、歩くのに不便なほどではなさそうだ。
「運搬船から放り出されて、かなり北のほうに流されたらしい」クラウドは言って軽い溜息をつく。どこか苛々したそぶりで首をめぐらした。「歩けるようなら、すぐ出発するぞ」
「どこへ？」バレットは両腕を広げてあたりを示した。道らしい道はどこにもなく、周囲はまばらに緑のあるだだっ広い荒野ばかりだ。
クラウドは答えずに、しばし北のほうを眺めていた。その魔晄の眼はいつもより鋭い光を放ち、空にある煙のような雲をひと睨みで退散させるかのような強さで輝いている。やがて彼はきびすを返した。
バレットは急いで彼の腕を掴んだ。「どこへ行くのかって訊いてんだぜ？」
「どこでもいい」クラウドは手首を捻ってバレットの腕を外すと、ぶっきらぼうに呟く。「こんなところで、ぐずぐずしているよりはましだ」
「そりゃそうだけどよ……」バレットはごわごわした髭を撫でまわした。「ティファやエアリスたちは？ 運搬船はどうなっちまったんだ？」
「そこまでは知らん」突き放すように答えると、クラウドはさっさと歩きはじめる。
バレットは眉を寄せて若者の後ろ姿を凝視した。いったい、こいつはどうしちまったんだ？ ユフィやレッドのことはともかく、エアリスのことさえ、どうでもいいって態度じゃねえか。
若者のあとを追ってなかば駆け足に丘を越えると、雨裂の深く切り窪んだ川を挟んで小さな草原が広がっていた。山裾の森が黒々とそれを縁取っている。バレットはまた振り返り、乾燥した北側を眺めやった。焦茶色の無味乾燥な大地に沿って海岸線はまっすぐ西へ走り、遥か先の低い山脈へと消えている。海の色は青く透明だったが、その面にはひどく冷たいきらめきがあるように感じられた。
再び視線を前方へ向けると、クラウドはすでに川のなかばまで進んでしまっている。バレットは慌てて川に突進した。
ばしゃばしゃと水を撥ねあげ、ごろごろした石に足を取られながらも向こう岸に渡ると、彼は意識して大声をあげた。「おい、方向がわかってんのか？」
「おまえが伸びているあいだに、ひとめぐりしてみた」と、クラウド。「ここはコスタ・デル・ソルの北にあたるが、そちらへ直接抜けるには、おまえの足では無理だろう」
そうしてめぐらせた視線の先には、草原と森のむこうにでこぼこの奇岩が並ぶ起伏の激しい地形が垣間見えた。確かに、獣道を歩くのならともかく、岩登り(ロッククライミング)は彼には無理だった。しかも運搬船で挫いたらしい足の痛みが、わずかに歩くリズムを崩している。
クラウドは西のほうを示して続けた。「そちらの山に入って南に抜けると砂漠に出るはずだ。そこから山脈に沿って北上する」
「そう簡単に言ってくれてもなあ……」バレットはがしがしと頭をかいた。「ところでおまえ、どこもおかしいところはねえのか？」
クラウドは魔晄の眼を光らせ、彼を振り返ってきた。「おかしいところ？」
「いや、なんだかよ……変だぜ、おまえ」
若者はじろりと睨んだだけで返答をせず、また無造作に歩きはじめる。バレットは吐息を抑えて彼に続いた。
草原といっても、それほど青い草が一面に生えているわけではなかった。ところどころに地面が剥き出しになっていて、そのどれもが乾いた灰色をしている。たいして肥沃な土地でもなさそうだ。森と草原のあいだにあるわずかに盛りあがった緩やかな丘を、灰色狼(ジャッカル)の一家が横切るのが見えた。海のほうからのひんやりした風がバレットの背中に吹きつけてき、彼は無意識に腕をこすった。
森に入ってしばらく行くと道は上りになってきた。これまでのところ、クラウドはほとんど口をひらいていない。バレットはなんとなく落ち着かなかった。声をかけようとしても、若者の後ろ姿はなぜか、「話しかけるな」と言っているようで、どうしても声が出なかったのだ。
やがて森が徐々に薄れていき、のぼったりくだったり、斜面を横切ったりして、彼らは入り組んだ山中に入りこんだ。どうやら小さな山をひとつ越えたらしいことは見当がつく。
左手に切り窪んだ谷を見おろし、枯れかけた柴を大股に乗り越え、バレットは大きく息をついた。「おい、ちっとペースを落としてくれねえか」
クラウドは数歩進んでから、バレットの存在をいま思い出したというふうに振り返り、そのままそこで立ち止まった。そうして彼が追いついてくるのを無言で睨みつけながら待つと、またきびすを返して先へと進みはじめる。
「なあ、道がわかってるのか？」バレットは再び大声で呼びかけた。
「知らん」クラウドは吐き捨てるように言ってから、溜息をつきたいのを我慢するかのように肩を竦めた。「人のいるところならわかる。いちいち心配するな」
バレットは顔をしかめ、少し長くなってもつれている髭をひと撫でした。「そいつは……またソルジャーさんの魔法かよ？」
軽く鼻で笑うようにしてから、クラウドは肩越しに視線を向けてくる。「生物は魔晄のかたまりだからな。人が集まっていればそれとわかる」
「生物ねえ……」バレットは息を切らしながら、ひとつの岩を乗り越えた。「辿りついていみたらモンスターの巣窟だったなんてのはごめんだぜ」
「ありうる話だな」
バレットは目をぎょろつかせて彼の背中を睨みつけた。若者は相変わらず無言で無表情のまま、なんの苦もなく、でこぼこ道をのぼりつづけている。バレットは大きく溜息をついてから、覚悟を決めて再び足を動かしはじめた。もともとエアリスやティファが相手ならともかく、こいつが他人と歩調を合わせるなんて親切なことをするはずがないんだ、ちくしょうめ。
灰色の地面には大小の石が転がっており、ときおりバレットの足もとで流れて彼をよろめかせた。あたりには思い出したようにしなびた樹木がぽつんぽつんと立ち、苔や草が岩肌にしがみつきながら生えている。ミッドガルやコンドルフォートの周辺ほど枯れた土地ではないが、さほど暑くもなく寒くもないこの気候で、また川まで流れている地域だというのに、あまりにも寂しい風景だった。うすら寒い空気のなか、遠くからひび割れた鳥の鳴き声が漂ってきたので、バレットは思わず眉を寄せる。モンスターでもいるのだろうか？
クラウドは突き出した岩を跳び越え、さらにもうひとつ下の岩道へ跳びおりた。バレットは懸命にその道筋を追ったが、若者ほどには身軽に移動できず、結局、トカゲのように岩をよじ登るしかない。
やっと下の岩道が見えるようになると、クラウドが待ちくたびれたように彼を見あげ、軽く顎を振った。ずるずると慎重に滑りおりてから、バレットは若者が指し示す方向へ目をやった。そこには黒っぽい葉をつけた樹木がいくつかかたまっており、背後の切り立った崖のあいだになにやら光っているものがある。
「線路だ」と、クラウド。
「ありがてえ、たとえ廃線だったとしても、あいつを辿ればどこかには着くってことだな」バレットはひたいの汗を拭いながら深呼吸した。それからぐるりとあたりを見まわし、線路らしきところまでおりるための道を探してみる。辿りつく場所さえわかれば、この若者のむちゃくちゃな道順を正直に追っていく必要もないのだ。
崖のほうをまわりこんでいる階段状に並んだ岩道が目に入り、彼はさっそくそちらへ足を向けた。クラウドが肩越しにしばらく彼の行動を眺めてから、無言で引き返してくる。
ところが道は途中で切れていた。バレットは落ち窪んだ地面を見おろし、かたわらの崖面を見あげ、どうしたものかと途方に暮れる。跳びおりてもいいが、この崖の高さは彼の背丈の三倍くらいはありそうで、足首を捻らずに着地する自信はあまりなかった。しかしここで引き返したところで、ましな道が別にあるわけでもなさそうだ。おまけに空は徐々に曇りはじめ、あと少ししたら、ぽつぽつとやってきそうな按配だった。彼は岩壁に手をつき、慎重に後ろ向きに足をおろしてみる。
と突然、鳥の羽ばたきと奇怪な鳴き声とが風といっしょに彼の顔を打ってきた。彼は足を滑らせ、咄嗟に崖面にしがみつく。なんとか落下を防いだあとで、どっと冷や汗が吹き出した。
羽のある大きな影が彼の頭上を横切っていく。クラウドの剣がそれと交差するように走った。白い羽毛がぱっと飛び散り、ひび割れた悲鳴が岩肌に撥ね返る。それは甲高くあたりにこだまを返し、やがてかすかな残響となって、ついには消えていった。
しばらくの静寂のあと、バレットがしがみついている岩の上にクラウドが足をかけた。「ただのコカトリスだ。さっさとおりろ」
やっぱり、こいつは気に入らねえぞ。バレットは不満の唸り声をあげながらも、しぶしぶ手を放した。ぐずぐずしていると、本当にクラウドに蹴飛ばされかねないと思ったからだ。
がらがらと流れ落ちる砂利といっしょに崖を滑りおり、バレットは着地と同時にたたらを踏んだ。そのすぐ後ろへクラウドが狙ったように跳びおりてきたので、彼は一瞬、ぎくりと背中をこわばらせる。舌打ちをこらえ、バレットは頭をがしがしとかきまわした。
自分でも正体のよくわからない緊張と欲求不満を胸中で懸命に処理しているあいだに、クラウドが再び先に立って進みはじめる。
しばしば、コカトリスというでっかい鶏やトカゲのようなモンスターの襲撃に遭いながらも、彼らは線路をめざして歩を重ねた。相変わらずの石ころだらけの獣道を辿りながら、やがてバレットは奇妙な違和感に気づいた。
モンスターたちは大抵、クラウドの剣で追い払われるか、拳で殴られてさっさと退散するかで、バレットのハンドガンの残り少ない弾丸を使う必要がほとんどないのだ。あの運搬船で出くわした化物(ジェノバ)に比べれば爪や牙しかない雑魚ではあろうが、普通なら十人以上の討伐隊を組んでやっとの猛獣だ。その群れの中を、若者はほとんど歩みを緩めずに進んでいた。
もともと彼はモンスターと同等か、それ以上に腕の立つ人間ではあったが、これほどの無造作ぶりは、さすがに変だとバレットは思う。そのうえ、あの重たい剣を背負わずに右手にぶらさげたまま、地形も関係なさげによろめきもせず、まっすぐに歩いているのだ。
クラウドが片手に握った剣のひと振りで打ち落とされたコカトリスの死骸を見つめながら、バレットは口を歪めた。本当に気に入らねえ、なにか違うぞ。
と、不意にクラウドが立ち止まった。バレットもつられて歩を緩める。「……どうした？」
若者は目を細め、なにか失敗したような表情をして地面を睨みつけていた。やがて上体をふらりと泳がせると、唐突に膝をつく。バレットが声をあげると、かたわらの岩と剣で身体を支えながら片手で彼を追い払う仕種をした。
「なんでもない……気にするな……」だが、その言葉に苦しげな呻き声が重なる。
バレットは急いで残りの斜面を滑りおりた。うずくまったクラウドの肩を掴んで揺すると、若者はもう一度手を振ってから、その手のひらをひたいにこすりつけて、かたく目を閉じる。
彼のひたいから頬にかけて流れくだる汗を認めて、バレットは眉を寄せた。「急にいったい、どうしちまったんだよ？」
「……これ以上は――」剣を立ててそれに体重をかけ、クラウドはよろよろと立ちあがった。まるで自分の足が思いどおり動くかどうか確かめるように、一歩、そしてまた一歩。
バレットがその腕を取ろうとするまもなく、彼はそのまま前のめりに倒れた。
「なんだ……？」呆気に取られて立ちつくしたバレットは、しかしすぐに倒れた若者のそばにしゃがみこんだ。
クラウドの身体を横向きに転がすと、彼は一瞬だけ目をひらいたが、まるで眩暈でも起こしてでもいるように焦点が合わず、その顔には苦痛の色が貼りついていた。大きな息のかたまりを吐き出すと同時に気を失ってからは、揺すっても蹴飛ばしても、呻き声の返事ひとつない。大量の汗が彼の首筋を流れ、支えているバレットの手のひらに水溜まりを作りはじめた。ひどい高熱にあることは一目瞭然だ。
「なんてこった……」なかば途方に暮れて、バレットはあたりを見まわした。だが、枯れかかった松の木が岩のあいだに窮屈そうに生えているだけで、病人を横たえて風をしのげるような場所など、どこにも見つからなかった。おまけに曇り空はますます重くのしかかってきている。少し離れた岩棚からトカゲの頭が覗いてこちらを見つめていた。その裂けた口がにやりと笑ったような気がして、バレットは身震いを抑える。
バレットはクラウドの剣をその背にある剣帯に収めると、彼の身体を肩にひっかけ、足を踏ん張って立ちあがった。ぐったりした若者を担ぐのはこれが初めてではないが、異様な重さに思わず悪態が飛び出る。
「ちくしょう、なんだってオレが、こんな……」舌打ちを繰り返しながらバレットはよろめき進みはじめた。
話す相手もおらず、気を紛らわせることもできずに、ずきずきと神経に障る足の痛みをこらえているうち、あたりが静寂に包まれているわけではないことにバレットは気づいた。
岩肌をこすってすり抜ける風がごくかすかな悲鳴のように聞こえ、砂がさらさらと移動するような擦過音が反響して、いもしない脅威を形作りはじめているようだ。気のせいだとはわかっていても、じわじわと恐怖が胸を締めつけてくる。おまけにクラウドの身体が一歩ごとに重みを増してくるようにさえ感じられた。
頭上から、ぎゃあ、とコカトリスの鳴き声が降ってきた。バレットは濃い灰色の空を見あげ、歯ぎしりする。天敵がいなくなったのを知ったモンスターたちが、あたりを嬉々として取りかこんでいる光景を想像したのだ。こんな状態で連中に襲われたらと考えると、悪寒が這いあがってきた。正直なところ、モンスターの棲息する地域になんの護衛もなしにうろつくなど、普通なら自殺行為に等しかった。
松林を迂回してめざす線路に辿りついたときには、すでに数滴の雨が彼の顔を打っていた。バレットは錆びたレールを蹴飛ばし、その両端を見比べる。背後に伸びていく線路はくねくねと曲がって崖と崖のあいだに消えており、前方もまた大きな切り立った崖をまわりこんでいた。
「どこに人里があるってんだ、ちくしょうめ」ひとり呟きながら肩を揺すってクラウドの身体の重心をずらすと、彼はさらに前へと足を踏み出す。
たいして歩数を稼がないうちに雨が激しくなってきた。しかし行けども行けども、黒い枯れ松と灰色の岩だらけの景色が続く。線路を敷くために積まれた土は長年の風雨に晒されて緩み、あちこち穴があいていた。雨音に混じって年寄りが力いっぱい笑っているような奇怪な鳴き声が、すぐそばから聞こえてくる。
バレットは、いるかもしれないモンスターを牽制するつもりでハンドガンをひと振りした。「うるせえぞ、こんちくしょう！」
やがて線路は崖面を斜めにくだりはじめた。ぼろぼろに錆びついたレールは、不安定な土砂の上にかろうじてひっかかっている状態だ。篠突く雨のなか、重い荷物を抱えたバレットの歩みは慎重さでますます遅くなった。
と、緑色の鱗を持った不気味な生物が姿を現わした。馬ぐらいある長い首はつるりとして艶を放ち、その縦長の口からは大きな牙が覗いている。太い四本の脚には象のような皺が刻まれ、厚い丈夫そうな蹄までついていた。
バレットはそれがモンスターだと意識する前に発砲した。しかしその障害物は、倒れるどころか太い脚を踏み鳴らして破(わ)れ鐘のような叫び声をあげると、こちらに向かって突進してきた。
彼は悲鳴を押し殺して身を伏せた。素早く横に転がったが、モンスターはクラウドの剣をその足にひっかけ、意識のない若者ともども彼を崖面に叩きつける。
土砂がバレットの頭になだれ落ちてき、彼の肘がクラウドの鳩尾に食いこむのがわかった。ぎくりと背筋が凍る。身を起こそうとしたが、しかし途端に足もとの地面が崩れた。レールと枕木のあいだにぽっかりと穴が穿たれ、その隙間へとクラウドの身体が滑り落ちていく。
「くそっ」バレットは肩の上の土砂を身ぶりで振り払いながら、急いで靴底を叩きつけて穴を拡げようとした。先に落ちた若者の姿を捜したが、穴の縁から見えるのは枯れ柴とでこぼこの崖面だけだ。
そうこうしているうちに、再び象足のモンスターが突進してきた。震動する枕木の上でバレットは身を起こし、こみあげてくるパニックを抑えながら必死になって右手の銃を乱射する。
当たっているのかいないのか、いずれにせよ、このモンスターに彼の銃弾は効果を及ぼさないようだった。彼はじりじりとあとずさり、蒸気のような白い息のかたまりを吐き出しながら迫ってくる化物に向かって、破れかぶれの雄叫びをあげた。
モンスターはその声をうわまわる音量で吼えたが、しかしそれは急に狼狽したような悲鳴に変わった。なにが起こったのかバレットが確かめるまもなく、レールがさらに激しく上下に波打つ。目の前のモンスターが、がくりと下に落ちこみ、牙のある口が苦しげに上へと突き出された。
揺れるレールにしがみつきながら、バレットはモンスターが崩れた穴に挟まりこんでいるのを見て取った。裂けた枕木がその長い首の中央に突き刺さっている。
とどめを刺そうと右手を伸ばした瞬間、バレットは再びの揺動に耐え切れなくなり、足を滑らせてレールの外へ放り出された。咄嗟に頭を庇ったものの、足が、肩が、背中が、硬い岩にぶつかり、撥ね返り、最後には砂利が容赦なく襲いかかって彼を押し流す。尖った石が腿を抉っていった。
歯を食いしばって耐えていると、いつのまにか落下は止まっていた。口の中に溜まった砂利を吐き出し、バレットは悪態をつきながら身を起こす。
激しい雨が眉の上に溜まっていた砂を目の中に流しこんできた。「くそっ、くそっ」と悪態を繰り返しながら彼は左目をこすり、土砂の中から這い出した。涙を拭いながら片目で見あげると、二本のレールのあいだにモンスターの下半身がぶらさがっている。それはもう、暴れてはおらず、斜面も静かになっていて、わずかに石ころが転がり落ちてくるのだけが最後の騒音になっていた。
バレットは痛む足を引きずりながら立ちあがった。息を整えつつあたりを見まわすと、それほど遠くないところに金髪の若者が倒れているのを認める。足の痛みにいらつきながらバレットは彼のそばへ辿りつき、そこにどっかりと坐りこんだ。
クラウドは、あれだけの衝撃の中にあっても目を覚ましてはいなかった。ただ顔色がますます青白くなり、呼吸が前よりも浅く小刻みになっているだけだ。もしかしたらバレットの腕が食いこんだときに、あばらの何本かを折ってしまったのかもしれない。
「くそっ」とすっかり癖になった悪態をついてから、バレットは若者の身体を横向きにして呼吸を確保すると、ぼろぼろになった上着を脱いで彼の頭にかぶせた。
バレットはまた立ちあがり、クラウドの腕を取って慎重に崖側へと引きずっていった。頭上に線路がかぶさる位置まで来ると、ようやく雨をしのげるようになる。彼は脱力してへたりこみ、岩に背をもたせかけて溜息をついた。
まったく、モンスター一匹でこのざまだ。オレひとりじゃ満足に旅もできやしない。バレットは横たわった若者を恨めしげに見おろした。
どこかでこいつを医者に診せなくちゃならんだろうな。人里があるはずなら、ひとっ走りして……いや、こいつを暖かくさせて目が覚めるのを待ってたほうがいいのか？ それとも……バレットは頭の中で行動リストを作成しようとしたが、あまりうまくいかなかった。そもそも彼は、計画とか工程とかいうものを作るのは不得意なのだ。アバランチにおいても、ジェシーやウェッジの具体的なサポートがあって初めて、リーダー足りえていたのだから。
ミッドガルで神羅の無慈悲な攻撃に晒されて死んだ仲間たちのことを思い出し、彼はかたく目を閉じた。しかしやがて激しく首を振ると、力いっぱい膝を叩く。
「よおし、こんなところでぐずぐずしている暇はねえ」勢いをつけて立ちあがろうとしたが、太腿の切り傷が身体じゅうに電気を走らせた。我慢できないほどの痛みではないが、気力を損なうには充分な出血だ。
仕方なくバレットは胡坐をかきなおし、身体の力を抜いて休憩することにした。
灰色の薄幕で覆ったような曇り空は、うっすらと太陽の光を透過させはじめていた。切り立った崖はぎざぎざの切り口を見せて灰色の空に突き刺さり、その根もとには黒い葉をつけた松の木が一本、老人のように腰を曲げてうずくまっている。
頭上の曲がりくねったレールを目で辿っているうち、彼は煙った視界のむこうに人工物があることに気づいた。目を眇めて凝視すると、確かに金属のきらめきが霧の中で瞬いている。彼はクラウドをそのままにして、這うように霧雨の中へ抜け出ると、崖にしがみつきながら数歩進んでみた。
ぐるりと周囲に岩山を並べた深い谷に、すっぽりと嵌めこまれている巨大な建築物があった。円形の基部に銀色の円形の塔。その円筒の中央から太い二本のレールが吐き出されており、線路は谷の割れ目ごとに分岐していた。
――魔晄炉？
ミッドガルでさんざんお目にかかっていた青く淡い光が、まるで建物がうすら笑いを浮かべているかのように、その外壁上でかすかに揺らめいている。
バレットは舌打ちを洩らした。「クラウドの野郎、モンスターの巣窟どころか、こいつのエネルギーを嗅ぎつけやがったのかよ？」
しかし魔晄炉があるということは、近くにそのエネルギーを利用している町なり、村なりが存在するということだ。バレットは足を引きずりながら急いで戻り、病人の腕を担ぎあげて背中にしょいこんだ。
「チッ、めんどくせえな……」バレットは呟きながら、覚悟を決めて進みはじめた。足は相変わらず痛んでいたが、すでに出血は止まっているようだ。なにより、ぐずぐずしていると日が暮れてしまう。
少し急な坂をのぼり、窪んだ場所をなんとかまたぎ越えると、頭上のレールを目で辿りながらバレットは崖をまわりこんだ。魔晄炉の位置を確認しつつ、できる限りそこから離れるように岩のあいだを通っていく。
彼は、いくら危急のときとはいえ、魔晄炉に駆けこむつもりはなかった。山の中の施設だろうと、そこには必ず神羅の作業員なり警備員なり、なにがしかがいるはずだからだ。魔晄炉から伸びる太い送電線のどれかを辿っていけば、変電所なり蓄電所なりを経て、いずれは町に出るだろう。それまで、この荷物と足の痛みを我慢すればいいことだ。
頭上の線路が途中で溶け落ち、曲がりくねりながら崖のわきへ垂れていた。深い亀裂を挟んで向こう側に、本来続いていたはずのレールが切り口を見せている。彼はレールを辿ることを諦め、なるべく平坦な道を探してうろつきまわった。
広い岩棚に出て下を見おろすと、列車のものではありえない幅の狭いもうひとつの鉄路が見えた。運搬専用のピストン線らしい。彼はいったんクラウドを背中からおろし、先にそこへ跳びおりてから病人を引きずり寄せ、再び担ぎなおした。
黒ずんだ枕木の上をずるりずるりと移動していくうち、彼は、その枕木の黒さが風雨に晒されたものではなく、焼け焦げであることに気がついた。ところどころに銃弾の穴らしきものさえ穿たれている。
彼は立ち止まり、背後を振り返った。雨はすっかり鳴りを潜め、かすかな靄を残して空気は澄みはじめてきている。遠くに魔晄炉の銀色のきらめきが見えたが、彼の足もとの線路はそこへ通じているのではなく、岩のあいだを蛇行して伸び、ひとつの突起した奇岩を迂回していた。そのわきからはほぼ垂直に岩壁が反り出し、その足もとには木材で補強した洞窟の入口があった。黒い坑道の近くには放置されたままの採掘機械がごろごろと転がっている。
バレットはそれらを長いあいだ見つめてから、空を仰ぎ、前へ向きなおり、再び背後を振り返って坑道を凝視した。内心で狼狽しながら、彼はこれまで辿ってきた道と太陽の方向を頭の中で組み立ててみる。
クラウドは、運搬船から放り出されて北のほうへ流されたと言っていた。コスタ・デル・ソルはそこから向かって東南、オレたちは西南の山を西のほうへ迂回し、山脈を南へ進んできた。多少右往左往しただろうが、たぶん方向的にはそんなものだ。
「それじゃ、ここは……この先は……」バレットは前方にまっすぐ伸びる線路を見つめ、茫然と立ちつくした。
ここはコレル地方と呼ばれている。彼らが越えてきたのはコレル山脈の一部だ。
そしてここは、バレットの生まれ故郷だった。