１ 言葉
コスモキャニオンからの帰り、気流の関係で赤道から少し南に針路を採っていると、リーブからジェミニ号経由で使いを頼まれた。ジュノンで、なんとかいう中将から重要書類を受け取ってきてくれというのだ。飛空艇の乗組員を家に帰さなければならなかったので、ジュノンに寄ることは予定のうちだから構わないと、クラウドは気軽に引き受けた。
ところで双子(ジェミニ)は相変わらずだった。ミッドガル避難のために、物資輸送にこき使われることには少々腹を立ててはいたようだが。
「人助けと思えば断わる理由もないけど、協力するのがあたりまえみたいに頭数に入れられちゃうと、ちょっとねえ。まったく神羅は健在っていう感じよ。不愉快なふりぐらいしないと恰好つかないじゃない」ビッキーはそう言って苦々しく笑ったものだ。「あたしら自由な海の住人にも、それなりに矜持ってものがあるんだしさ」
そんなわけで、ジュノンに到着するまでは、海と空を無線で繋いで女船長のおしゃべりにつきあわされた。ジュノンに着けば着いたで、連絡の行き違いから逮捕されそうにさえなる。
リーブの使いだとわかれば自由行動は保証されたが、書類の用意がまだできていなかったらしい。クラウドは仕方なく、ティファをひっぱってローウェル大尉の官舎へ押しかけた。
隊長の家には家族がひとり増えていた。ベビーベッドで眠る女の子はまだ泣くことしかできなかったが、七歳になる男の子はラジコンや列車を並べてクラウドと遊んでくれたものだ。ティファは奥さんと女同士の話とやらに夢中になっていた。
クラウドもティファも、その日の夕食ごろまで遊びつづけたあと、神羅軍の倉庫に寄って、放ったらかしにしてあったバイクを引き取って飛空艇に帰った。そして日もとっぷり暮れる頃、ようやく書類が届く。
仲間に約束した三日のうち、ほとんど二日間を消費したようなものだった。騒がしい仲間たちがいない物足りなさを思い出さずにすんだだけでも、ちょうどいいと言うべきか。
ミッドガルに着いたのは明けがたになった。引き取ったバイクを整備してなんとか動かせるようにすると、クラウドは空中都市へ向かう。
あれからそれほど時間も経っていないはずなのに、ミッドガルは意外にも落ち着いていた。街路にはちらほらと人影もあるが、総じて静まり返っている。もっとも、この切羽詰まった状況で買いものを楽しもうという者がいるはずもない。ぽつぽつと歩く人々は大抵、大荷物を抱えた避難民か、その案内と治安維持にあたっている神羅兵がほとんどだった。
ミッドガル避難のための本部は、五番街の市民会館から神羅ビルへと移されたらしい。近くを巡回していた神羅兵の話によれば、避難計画が具体的に進むにつれ、手狭になってきたとのことだった。クラウドは封鎖されているハイウェイではなく、ややこしい街路を迷いながら、〇番街中央にある高いビルへと向かった。
デイトナを正面わきに停め、シャッターのすっかり取り去られた社内に入ると、いきなりの人いきれに思わず立ちすくむ。それまで閑静とも言えた街路に比べ、むっとするほどの体臭と喧騒でそこは埋めつくされていた。陳列台や商品、そのほか散らかしっ放しだったはずのくず鉄は隅に寄せられ、だだっ広い中に長テーブルやパイプ椅子などが持ちこまれている。
この神羅ビルは七十ものフロアを載せているだけあって、一階ロビーの広さは相当なものだ。それが、いまは押しあいへしあいするほどの人間でごった返し、波を作って揺れている。入口は破壊されて吹きさらしではあったものの、その人の多さで外気はあまり感じられなかった。
クラウドは人波を縫い、かき分け、奥へと進んだ。ひっきりなしに人が出入りし、種々雑多な人間がそこで群れている。クラウドのように物騒な剣を背負っていても、誰も気に留めなかった。ほとんどの人々はそれどころではないという必死の面持ちだ。各街区ごとに置かれたテーブルと案内板が、一見無秩序な人の流れを多少は整えているらしい。苦情や相談を持ちこんで並んでいる人々を強引に横断しながら、彼はリーブの姿を探した。
「とにかくエレベーターの安全運行が優先だ」苛立ちを抑えたような怒鳴り声が聞こえてきて、クラウドはそちらへと視線を投げた。通常は契約カウンターとして使われていたのだろう、半分に仕切られた広めのブースがそこにある。
そのひとつのデスクに、リーブとドミノ市長、そのほか数人の神羅社員、そしてどう見てもスラムのテロリストとしか思えない男たちがかたまっていた。
リーブはペンを持った手を振りながら周囲の人間に言い含めていた。「一基でも壊したら避難作業は一か月遅れると思え。そして時間は一週間もないんだ」
「暴動の発生を――」ドミノが言いかけると、リーブは疲労の濃い目できつく彼を睨みつける。「いいか、力ではなにも解決しないこともある。きみがメテオ後のミッドガルの独立をめざすなら、絶対に騒ぎを起こさせるな。また、それを武力で鎮圧するなど言語道断だぞ」
反論できずに縮こまった市長は、クラウドが近づいていくと、さらにぎくりと身を退いた。「あ、ああ、わかった」とリーブに向けて急いで手を振る。「だが武装はさせておくぞ。抑止にはなるからな」
「そのあたりは任せる」リーブは呟くように言ってから、クラウドに軽く手をあげてみせた。もう少し待ってくれという合図だろう。「とにかく具体的な行動に入ってくれ、時間が惜しい」
クラウドと入れ替わるようにして市長とその取り巻きが遠ざかっていくと、リーブは社員たちにいくつか指示を出して追い払った。
「忙しそうだな」とりあえずクラウドは、あたりさわりのない挨拶をした。
「あたりまえだ」リーブも素気なく言って俯き、デスクに広げてあったミッドガルの縮図を睨みつける。どうやら螺旋列車を動かせる区間でも使おうと苦慮しているのか、断線個所をペンでひっかきながらリーブは唸りつづけていた。
クラウドは手に持っていた大封筒をデスクに載せ、パイプ椅子を引き寄せて坐った。「ジュノンからだ。あっちの、なんとかいう中将からもらってきた」
「すまんな、きみたちもいろいろと準備があるだろうに」さっそく封筒から書類の束を取り出しながらリーブは呟いた。
「べつに」クラウドは剣を外してテーブルに立てかけると、椅子に背をもたせかける。「どのみち、ジュノンで飛空艇の乗組員たちを降ろさなければならなかったからな」それから彼はちらりと、おもてのほうへ視線を投げた。そちらへと曖昧に指を立てて示しながら、「それにちょうど、おれのバイクも収容できたし、隊長のところにも挨拶に行けたからな」
「それならいいが……それにしても、ネットワークが分断されていなかったら、もう少しスムーズに事が運ぶのだがな」ぼやいて、リーブは書類をわきにどける。
コーヒーを持った女性社員のひとりが近づいてくると、彼女はリーブとクラウドにも湯気の立つ紙コップを渡してくれた。
ウィンクをして去っていく彼女を見送りながらクラウドは呟いた。「それについてはヴィンセントが謝っていた」
「なぜ彼が？」怪訝そうに顔をあげるリーブ。
「ネットワークを壊したのはあいつなんだ」
リーブは押し黙り、なんとも言えない表情を作る。
「ティファの弁護によれば、ユフィも共犯だそうだが」クラウドはつけ足した。
「もう、言うな」リーブはきっぱりと遮った。「すんだことを、ぶつくさ言った私が悪かったよ」
ずずっとコーヒーをすする彼の姿を見て、クラウドも自分の手に紙コップがあるのを思い出した。ひとくち喉に流しこんでみるが、こればかりは相変わらず味がわからない。どうしてみな、こんな黒い水をうまいと言うのだろう。
「準備はできたのか」リーブが書類を整えながら呟くように訊いた。
「さあ？」クラウドはかすかに苦笑した。「それぞれ引き止めるだろう家族のところへ、みんなを追い出したのはおれだ。あと一日、ぎりぎりまで待ってから行くつもりだが」
「私も」リーブが再び紙コップを持ちあげ、しかし口をつけずに中身を見つめるだけだった。「きみたちといっしょに行きたいと思うことがある。だが――」
クラウドは短く頷いた。「わかっている。ミッドガルは、あんたがいなければどうしようもないからな」
「星を救いたいという気持ちは誰しも同じだ」彼はようやく、コーヒーをもうひとくち飲んだ。「だがきみの言うとおり、その壮大な理想に殉じてすべてのものを捨てていくのは……ああ」と、彼は軽く笑う。「きみたちは死にに行くつもりはないだろうが、残された者はそう思わんだろう。きみの判断は正しい」
「……どうも」
リーブは一枚の紙と小さな包みを取りあげた。どちらもクラウドが持ってきた封筒の中にあったものだ。「きみの死亡データは取り消しておいた。といっても、ジュノン支部のデータベースだけだがな。ミッドガルのサーバーはダウンしているし、ネットワークがばらばらなので簡易的な措置になってしまったが……」と取り出したそれらを、クラウドに向けてデスクの上を滑らせてくる。「神羅カンパニーの退役証明書と最終階級章だ。慣例に従って一階級特進、退役少尉になる」
証明書と包みを受け取りながらクラウドは苦笑した。五年間在籍していたこととして、おそらくは強引にでっちあげたらしい。この混乱の中なら可能ではあろうが、それでも予備役兵扱いにするのがせいぜいのはずだ。階級についても、慣例と言ったが、それは当てはまらない。ほとんどリーブの気持ちということだろう。「ありがたく受け取っておくが、いまさらなんの意味が？」
「神羅の重役として……」リーブは言いかけ、取り消すように片手を振った。「いや、私のけじめだとでも思ってくれ」
「みんな、けじめをつけたがるな」
リーブは笑った。「きみもそのために大空洞へ行くのだろうが」
「そうとも言うが」
「星が終わるかもしれないという局面にあっては、それと考えていなかった者でも人生を整理してしまうものさ。とにかく、この星はひとつの転機を迎える。それに合わせれば、ちょうどいいというものだろう」
クラウドはデスクに肘を立てた。「あんた、神羅を辞めるつもりでいるのか？」
リーブは応えず、ただ両手を広げただけだった。
顎を支えながらクラウドは彼を見た。「……まあいいか、あんたの事情だ。ところで」とコーヒーを残したまま、紙コップをデスクに置く。「別荘というものがどこで手に入るのか、あんた知っているか？」
リーブは怪訝そうに眉を寄せた。「別荘？」
「ああ」クラウドは頷く。「ティファが欲しがっているんだ」
リーブはたっぷり一分間もクラウドの顔を見つめていた。やがて彼はデスクに向きなおり、仕事を再開する。
「リーブ？」クラウドは声をかける。
彼は深い溜息をついた。「彼女もまた、指輪より高いものをねだるものだな。買ってやるという、きみもきみだが……」
クラウドは眉を寄せた。「なんだ？」
「いや……べつに」リーブは再び諦めたような溜息をつく。
「で、どこで売っているんだ？」クラウドは重ねて訊いた。
彼はようやく図面から顔をあげる。「どうせなら家を買ってやればいいだろう」
「家ではなくて別荘だと念を押された」
「家もないのに」
「それはおれも言った」クラウドは身を起こし、手持ち無沙汰に剣を引き寄せる。「私物を置いておける場所が欲しいらしいんだが、倉庫だと気に入らないみたいなんだ」
「金はどうする」
「とりあえず借金」それからクラウドは気がついて、先ほどもらった書類を軽くあげてみせた。「ヒューイにでも借りるつもりだったが、身分証明はこれでなんとかなるからな。あとはゴールドソーサーで荒稼ぎする予定だ」
「すぐに溜まりそうだな……しかし、それはイカサマと言わないか？」
「闘技場の参加資格に、ソルジャーはだめだとは書いていないだろ」
リーブはひたいに手を当てながら軽く頭を振った。「わかった、退職金をくれてやるから、ディオを泣かすのはほどほどにしておいてくれ」
「ありがとう」クラウドは立ちあがった。「それで、どこで売っているものなんだ？」
「……コスタ・デル・ソルの不動産屋をあたってみろ」
クラウドは少し記憶を探った。確か、あのリゾート地には知りあいがいたような気がするが……。「電話あるか？」
＊＊＊
ハイウィンドの無線呼出し音が切れないうちに、ティファは急いでコックピットに飛びこんだ。乗組員を全員降ろしてしまったものだから電話番もいないのだ。キッチンで火にかかっている鍋はまだしばらく大丈夫だが、いざというとき、ひとりきりというのは非常に不便で困る。
彼女は息を切らしながら通話ボタンを押した。「こちら飛空艇ハイウィンド」
『クラウドはいる？』
いきなり不躾な女の声。ティファは少しむっとした。「出かけてるわ。あなた誰？」
『シンシアよ。あんた、ティファね？』
「そうよ」シンシア？ なんで彼女がクラウドを指名して無線かけてくるのかしら。「彼になんの用？」
『いきなりこっちに電話かけてきて、ジョニーに伝言してきたのはあんたの旦那のほうでしょ』
ティファは自分が真っ赤になったのを自覚した。ああ、声だけでよかった。わたしって顔に出やすいから、またすぐにからかわれるところだわ。「旦那じゃありませんってば……彼がなにを言ったって？」
『不動産探しといてくれですって。いったい何事なのよ』スピーカーのむこうの彼女は、えらく憤慨している。まあ、いつものことと言えばいつものことなんだけど。『とにかく、かけなおそうにも、どこにいるんだかわからないし』
「どうやってこの飛空艇の周波数わかったの」訊いてから、ティファは眉を寄せた。「ちょっと待って。あなた、どこの無線使ってるの？」普通の家に無線機なんかあるはずがない。だいたい彼女、免許だって持っていないでしょうに。
『ツォンって人のを借りてるのよ』
ティファは速攻で切りたくなった。それはむしろ条件反射というものだろう。なんとかその衝動を押しとどめると、彼女はおそるおそる訊ねる。「あの、ツォン、そこにいるの？」
すぐと冷静な男の声が割りこんできた。『ご心配なく、私はリハビリ中です。銃も撃てないありさまですからね』
ああそうか。ティファは複雑な思いで頷いた。最後に見たときの彼は大怪我をして意識不明だった。あのとき、応急的な処置は自分も手伝ったのだ。あれで助かったのだから、さすがにタークスと感心するべきか。
ツォンは苦笑したような声で続けた。『ここには彼女の婚約者どのもいっしょですから、へたなことはできません』ひと呼吸置くと、彼は事務的な口調に変えた。『話の内容に割りこむつもりはありませんでしたが、なぜ別荘を？』
「別荘？」
無線の向こうで、ごちゃごちゃと話が交わされる気配が続く。
『あんた、なにも聞いてないわけ？』と、シンシアが怒鳴りつけてきた。
「ちょっと待ってよ」ええと、そんな話――あ。「たぶん、わたしがねだったやつだわ、それ」
一瞬の沈黙ののち、ジョニーの慌てた声が飛びこんでくる。『わあ、シンシア、やめろ、投げるな！』
続いて彼女のきんきん声が、ふたりの男の狼狽した叫び声を遮った。『天下のお尋ね者が《急いでる》なんて電話かけてくれば、こっちだってあせるに決まってるでしょ！ それがなに、たんに自分の彼女にプレゼントするだけ？ ふざけないでよ！』
そんなこと言われたって、わたしのせいじゃないわよ。「わかった、わかった、クラウドが帰ってきたら、かけなおさせるから……あ、そうか、飛空艇には電話ないんだわ。その無線で待っててくれる」
『これは私のものなんですが』ツォンが遠慮がちに囁いた。
ティファは無視した。「ところで婚約って言ってたけど、ジョニー、プロポーズしたの？」
彼が応えるよりも早く、シンシアが叫んだ。『うるさいわね、人のことなんかどうでもいいでしょ！ あんたもさっさと指輪のひとつぐらいもらいなさいよね！』
ぶつ。
やれやれ。彼女も相変わらずだわ。ティファは無線を切り、軽い吐息とともに頬杖をついた。指輪どころか、まだ告白もしていないなんて言ったら、またなにを怒鳴られることか。
……大空洞に行くまでには、もう少し、けじめをつけたかったんだけどな。
乗組員がいるあいだはへたに話しこめなかったし、ジュノンじゃ、なにやかやと忙しくて……気がつけば、あと一日しかない。
それなのにクラウドはミッドガルに行っちゃって、わたしはひとりお留守番。もっとも、彼の運転するバイクの後ろになんか絶対に乗りたくないと言ったのはわたしなんだけどね。ほんと、大味なのもいいけど、ちょっとは自覚してもらえないかしら。ジュノンからここまで嬉々として舵輪握っちゃって、行程の半分は自動操縦(オートパイロット)だったとはいえ、わたし生きた心地がしなかったわよ。
ティファは、クラウドがいつも坐っているいちばん前のシートに身を投げ出した。舵輪の位置と同じぐらい周囲がよく見える場所だ。
彼女はぼんやりと正面の景色を眺めた。草原とうっすら影を浮かばせている山脈。その中にある灰色の荒野は、中心に行くほど影が濃くなっているように見えた。そこに夜の街が鎮座している。
コックピットから見えるミッドガルは、以前とほとんど変わりはなかった。ところどころ錆びはじめた金属のように、きらびやかな輝きは失せてきている。
夜空に溶けて輝くようなあのネオンを頭上に、耳につく機械の音、埃っぽい空気と、しっとりまとわりついてくる肌寒い風。いま思い返せば、とても懐かしく、そして……なぜか帰りたいと考えている自分に気づく。
メテオをやりすごしたら、またもとの大都市に戻れるかしら？ もしそうなったら、今度はスラムなんかなくなるといいわね。
きっと誰もが仲よくやっていけるよね。
セブンスヘブンで、それでも平穏だったあのときのように。
わたし、そんなミッドガルに住みたいな。
ううん、ミッドガルじゃなくてもいい。人が大勢いて、変わらない毎日を過ごしていて、わたしもクラウドもその風景のひとつになれる、そんな街に。
思えばウータイでもスラムでも、わたしはずっと落ち着かなかった。ここはわたしのいる場所じゃないって、いつも感じていた。
わたしのいる場所はどこにもないと思いこんでいたの。
でもそういう場所は、どこにでもあるものなのよ。
この飛空艇みたいに。
この、どこでもない《ここ》みたいに。
そのまま空中城を浮かばせている荒野を眺めていると、そのあいだに一本、砂煙の線を引いて黒いバイクがこちらに向かってくるのが見えた。
ティファは思わず立ちあがり、きびすを返しかけた。が、いったん立ち止まる。ちょっと待って。わたしいま、お帰りなさいって新婚さんみたいに飛び出していくところだった？ ものすごーく嬉しそうな顔してない？
ぱたぱたと全身の点検をして何回も深呼吸してから、彼女は意識してゆっくり歩いた。それでも船底から伸びたタラップをくだる頃には早足になってしまっている。べつにクラウドだからってわけじゃないのよ。ただ長い時間をひとりで留守番していたから、ちょっと寂しかったの。それだけよ。
ああエアリス、ごめん。わたし、こればっかりは素直になれないみたい。
ものすごい速度で突っこんできて、ひときわ高い砂塵をまき散らし、クラウドはぴたりと飛空艇の真下にバイクを停めた。ティファはこっそり溜息をつく。乱暴すぎる運転とはいえ、やっぱりこういうものを乗りまわしているところは男の子って感じで恰好いいのよね。でも絶対に言わないんだから。
ギアを外し、エンジンを切って彼がバイクから降りてくる頃、ティファは声をかけた。「お帰りなさい」
「ああ」とキーをポケットにしまいながら、クラウド。
デイトナという型名を持つこの単車(バイク)は、驚いたことにクラウドのものらしい。神羅のジュノン支部、その倉庫に眠っていた埃だらけのそれを、彼は飛空艇に持ちこんたのだ。移動に便利だからという理由でひっぱってきたが、ほとんど屁理屈に違いない。大事なものという思いも充分に理解できたが、なにより、こういうものをさわっていたいのだ、彼は。
そのおかげで、彼女はここに飛空艇をおろして半日、整備に没頭していたクラウドとまともに会話を楽しんだ憶えがなかった。走れるようになったらなったで、途端にすっ飛んでいっちゃうし。
「そういえば」ティファは両手を腰に当ててクラウドを睨みつけた。「ヘルメットって部屋に飾っておくものだったかしら？」
飛空艇の底からリフトをおろし、その上にバイクを押しあげながら彼はわずかに顔をしかめた。「……忘れたんだ」
「今度は手のひらにでも書いておきなさいよ」
「そうする」
リフトを操作して車をしまうと、クラウドはとっとと飛空艇の中へとタラップをのぼりはじめた。
「ねえ」ティファも彼を追って艇内に入る。「シンシアから無線が入ってたけど」
「ずいぶん早いな」振り返りながら彼は眉を寄せた。「無線で連絡してきたのか？」
「ツォンがあっちにいるそうなの。仲よくなってたみたい」彼女たちのほうが押しかけていたとも言うんだけど。「ねえ別荘って、わたしの言ったあの件？」
「ほかに買う理由はないぞ？」間違っていたか、という目を向けてくるクラウド。
ティファは手を振った。「ううん、いいの。ただ相変わらず行動が迅速だなと思って」それから彼女は、少し不安になって彼を見あげた。「お金とか法律とか、大丈夫なの？」
「リーブが保証人になったようなものだ」とクラウドは一枚の紙を取り出し、彼女に見せるようにして軽く振った。「それに、いまのうちにまとめておかないと、今後、その法律がどうなるかわからないしな」
ああそうか。ティファは吐息を抑えた。神羅は解体とまではいかなくても縮小せざるを得ないし、そうなると特に中央大陸では神羅の統合力もどうなるか。
そのときの混乱を想像すると、いまさらながら全身を震えが走る。メテオをやりすごしたあと、神羅がなくなっていたら、この世界、いったいどうなってしまうんだろう。あの会社を潰さず独裁だけをやめさせようとしていたコスモキャニオンの苦労が、ようやく彼女は理解できたような気がした。
クラウドはそのままコックピットへ向かっていき、ティファは途中でキッチンのある船室に入った。
飛空艇には、長期滞空して地上に降りられないときのために生活に必要なさまざまなものが設けられている。シャワールームや、たんに休憩室と呼んでいるこの部屋などだ。彼女の仲間たちは、いつでもどこでも、くつろいでしまう習性があるので、そうした部屋は特に必要ないと思うが、乗組員たちはそうもいかない。彼らは交代で、これらの設備を充分に活用していた。そしてティファにとってありがたいことに、多人数用のキッチンが据えられていたのだ。
彼女は電気コンロの前に立ち、そこで密やかに蒸気を吐いている大鍋を覗きこんだ。たっぷりした湯の中に種々の野菜や骨付き肉が泳いでいる。煮詰まり具合を確認して、まだしばらく時間がかかりそうだと判断すると、彼女は電熱器の温度を調整してから、ほかのおかずの下ごしらえに入った。
玉葱の皮を大量に剥き、トマトもいっしょに細かく刻んで山盛りにしてから、彼女は、はたと気づいて動きを止めた。ああ、またやっちゃった。シチューは一日、二日はもつかもしれないけれど、これだけのオニオンサラダを誰が食べるというの。
仲間たちが降りてから、気をつけてはいても、ついつい作りすぎてしまうのだ。そのたびに、こっちが消化不良を心配するほど、クラウドはもったいないと、ぺろりと平らげてしまう。さすがに揚げものは途中でギブアップしていたけど……まったく、あの細い身体のどこにあれだけのエネルギーが入っていくのかしらね。
いずれにしてもと、オニオンサラダのほかの利用法や保存方法、そしてなんとかクラウドの目を盗んで廃棄する方法を、彼女は必死で考えた。
ところが、思いきって荒野にばらまこうかと考えた途端、その当人に見つかってしまう。
いつのまにかキッチンに入ってきていた彼は、胡散臭げにテーブルの上を見おろした。「こんなに積んで、なにしてるんだ？」
ティファは慌てて山盛りの野菜をシチュー鍋に放りこんだ。「料理するに決まってるでしょ、今夜はシチューよ、トマトシチュー」
本当はもっと、あっさりしたものにするつもりだったんだけど……仕方がないわ。あとでちょっとスパイスを足しておかなくちゃ。
「……また大量に作ったのかと思った」
やっぱり多いとは思っていたわけね。それならそうと、残せばいいのに。
「人間、習性ってものがあるのよ」ティファは鍋の蓋を閉めた。「シンシアとは連絡ついたの？」
「話にならなかった。ツォンが代わって手配してくれるらしい」
彼女はしばらく反応できなかった。「……なんでツォンが？」
「暇そうだったからな」
「そういう問題？」
「大空洞から帰ったら、エアリスのことで話したいことがあるそうだ。約束の地のことも聞きたがっていた」
あのタークスが約束の地に興味あるのか。ちょっと意外だわ。
それからしばらく無言の時間が続いた。そのうちティファは鍋の中身に集中してしまい、クラウドの存在も忘れかけたほどだ。それほど、彼女がなにかをやっているときには、彼はひっそりと佇んでいるときのほうが多い。
ティファは刻んだ玉葱がすっかり溶けてしまった頃、火を止めて鍋をおろし、振り返った。そこに先刻から変わらない姿勢のままクラウドが立っているのを見て、彼女は思わず叫び声をあげてしまう。
彼は眉を寄せた。「なんだよ」
「なんだよじゃないわよ……ああ、びっくりした」彼女は胸を撫でおろし、呼吸を整える。「もしかして、ずっとそこに立ってたの？」
「邪魔だったか？」
「邪魔と感じるほどそこにいるとは思わなかったから、驚いたんじゃないの」
クラウドは考えこみ、少しぎごちない沈黙がおりる。
ティファは居心地の悪さに身震いした。「もういいから、出て、出て。こんな狭いところで、なにもすることなんかないでしょ」と彼の背中を押して通路に出る。
「飯の支度、もういいのか？」肩越しに振り返って心配そうに鍋を見るクラウド。
ティファは首を傾げた。「なに、お腹すいてるの？」
「いや」
「だったら、あと三時間は待ってちょうだい。具を馴染ませたいの」
亭主元気で留守がいいって、こういうこと言うのかしら。黙って見ていられると、なにもできないじゃない。
先刻までひとりきりで留守番なんてつまらないと考えていた彼女だが、ふたりになっても、べつにやることがあるわけではない。しかもクラウドが相手だと、会話が長く続かないものだから、ぽつりと喋っては黙りこむということを繰り返すしかなかった。
コックピットに戻ったクラウドは、舵輪に肘をもたせかけ、そのまま動かなくなってしまったらしい。ティファは手持ち無沙汰になって、なんとはなしに地上放送を拾おうと無線をいじりつづける。
どこもかしこもメテオとミッドガルの近況を報告するニュース番組ばかりだったが、鳥の声さえ聞こえない静寂よりはましと、ティファはスイッチを切るつもりはなかった。
やがて太陽が西に傾き、空がほんのり紫色になってきた。
アナウンサーの声が潮騒のようなノイズといっしょにコックピット内を静かに浸している。緩く流れる時間の中で、ややもすると、そこにクラウドがいるのがあたりまえになって、またその存在さえ気にならなくなってきた。
これがいまのふたりの距離。ティファは静かに微笑んだ。
わたしたち、これまでずっと離ればなれだったんだね。たとえどんなに近くにいても、わたし、あなたを捜していた。
いまは捜す必要がないほど、そこにいるとわかっている。
でも。
いつか――
「おれ……」クラウドが舵輪を抱えこむように上体を預けたまま、静かに呟いた。彼は彼女のほうを見てはおらず、紫色に染まった雲をぼんやりと見あげているようだ。「ライフストリームで、あんたの声を聞いた」
ティファはラジオを切ろうかどうか迷ったあげく、そのままにしておくことにした。なにも変えないほうがいい。そんな気がしたのだ。
「いまとなっては、あのときティファがなにを言っていたのか、おれがなにを応えたのか……」喋りにくそうに彼は続ける。「でも、呼んでくれていたよな……ずっと」
「わたし必死だったの」彼女はかすれた声で言ってから両手の指を組み、前に伸ばして椅子に背をもたせかけた。「でもね、クラウドも呼んでたんだよ。だからわたし、あなたを見つけられたんだと思う」
ジュノンで、ニブルヘイムで、そしてミディールで。あなたの断片に触れていた。あなたの呼ぶ声に引き寄せられて、それでも見つからなくて、たぶん迷子になっていたんだと思う。
あんな広い世界、どこまでも深いライフストリームの中でたったひとりのクラウドを探すなんてこと、わたしの想いだけでできることじゃないもの。
「ライフストリームで守ってくれて、ありがとう」ティファは言った。
クラウドはちらりと肩越しにこちらを振り返る。「約束したからな」
「うん」ティファは不意に泣きたくなった。あの約束がわたしたちを助けてくれたようなものだ。これからもすべてのことを引き換えにしても大切にしたい。
彼女はゆっくり立ちあがると、静かに歩いた。
クラウドのわきを通り越し、フロントガラスに両手をついてティファは星のすべてを見つめる。
草原、荒野、かすんだ山脈。右手には海のきらめきもあった。
ミッドガル、そこに住む人々。ラジオから流れつづける祈りのようなその声。
「ねえクラウド……わたしたちの声を、星も聞いていてくれると思う？ 頑張ってるわたしたちの姿、見ていてくれると思う？」
「さあな」呟くようにクラウド。
「うん……」ティファはなんとなく頷いた。
誰が見ていても、誰も見ていなくても、わたしたちはわたしたちの道を進むだけなのよね。ユフィに言ったように、わたしたちが何者なのかの答えは、わたしたちが出すものじゃない。
「なあ」クラウドがまた口をひらく。「おれ、ティファには話したいことがたくさんあったんだ。ずっと、なにか……」
途切れて、また続く彼の言葉。「ただこうしていると、本当はなにを話したかったのか……」
なんだかおかしい。ティファはまた微笑を浮かべた。クラウドって、行動すべきことがはっきりしているときには単刀直入に話すのにね。ぶっきらぼうに短く、きっぱりと。それなのに、想うことを話そうとすると突然、歯切れが悪くなる。
たぶん嘘をつきたくないんだね。言葉にしてしまうと、なにかが濁ってしまうような気がするんじゃないかな。
わたしもときどき、そんなふうに感じることがあるから。
「クラウド」ティファは後ろで組んだ腕を心持ちまっすぐ伸ばし、顔をあげて空を見あげた。一度深呼吸する。「想いを伝えるのは言葉だけじゃないのよ」
振り返れば青い目が彼女を見つめていた。ティファはまっすぐそれを見つめ返す。
あなたの魔晄の眼、とても好きよ。
それに気づくまでにはずいぶん時間がかかったけど。
泣きたくなるほど透明で。
星の瞳だね。
触れあうまで、彼女はそれだけを見つめていた。
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