１
嵐だと思った。
ミッドガルで育った彼女にとっておとぎ話の中でしか知らなかったもの。これがたぶん嵐なのだろう。
窓の外では赤黒い竜巻と射るような稲妻が閃いていて、彼女は目を見ひらいたままそれをみつめていた。慄える母に抱きしめられ、父に庇われ、生まれて初めて目にする嵐の荒ぶる姿を彼女は凝視していたのだ。
この世界最大の鋼鉄都市、ミッドガルの真上に迫ったあの赤い嵐。隕石(メテオ)と大人たちは囁きあっていた。巨大なメテオが落ちてくる。世界の終末がやってくると。
確かに終末はやってきたのかもしれない。
彼女には隕石というよりも灼熱した天そのものだと思えた。なにもかも引き寄せ、砕き、破壊しようとする意志のかたまりだ。
黒々とした風が天へと駆け昇り、渦巻き、コンクリートの欠片や鉄塊、ガラス片、車や人、果てはビルをも上空へと運んでいく。轟々と鳴る風の悲鳴はそのままミッドガル自身の苦鳴とも思え、母の悲鳴も、父の怒鳴り声も、それらに吸いこまれ、同じものとなってあの不気味な赤い星に取りこまれていった。
もし彼女が声をあげていたら、彼女の泣き声も恐怖もすべてあの黒い天に同化してしまっただろう。世界は黒くなって、みんな嵐と炎に変わるのだ。
しかし、彼女がさらに恐れたのは、そのすぐあとに来たひときわ眩い白い光だった。すべての闇も不浄も許さない、染みひとつないまったき光。あの暗黒の嵐を連れてきた赤い隕石とはまるで正反対のものだった。
この清浄で正しすぎる光は、ミッドガルとそこに生きる人々、そして彼女自身をも消し去ってしまうに違いない。彼女には、この白い光がすべてのものに対して怒っているようにも思えた。
実際、白い光はかなり長いあいだ彼女の目を灼き焦がそうとしていた。母と父がいっそう力をこめて彼女を床に押さえつけ、窓から目を逸らせてくれなければ、彼女はものを見る力もなくしてしまっていただろう。あるいは、ものを考える力も。
父母に抱きしめられながら、彼女は今度こそみんななくなってしまうのだと考えていた。
だが、結局のところ、迫り落ちてくる赤黒い闇も、強烈な白い光も、彼女と彼女の世界を灼きつくすことはなかった。
すべてを呑みこもうとする闇とすべてを消し去ろうとする光。相反するふたつの巨大な力を吸収するように、また、それらから世界を守るように青い別の力がミッドガルを包んだ。
最初は水かと思った。冷たくもなく、暖かくもなく、だが、ふわりとした弱い泡のようなささやかなもの。
それは彼女の内部から、あるいは母の柔らかい手から、また、あるいは父の逞しい背中から、床から壁から、ありとあらゆる内奥から靄のように滲み出してきたのだ。
それは次第に緩く細い流れを作り、やがて大きくうねりながら力強い大河となっていく。ついには海のようにすべてを満たし、すべての争いを呑みこんでしまった。
闇と光の戦いも、その結果も。
人々の悲鳴も、苦しみも、悲しみも。
そこには恐怖もなく、さりとて幸福もなく、残されたのはわずかな生命と半壊した鋼鉄都市の残骸だけだった。
彼女の父母も茫然としていた。「終わったんだ」とうわごとのように繰り返すだけだ。彼女自身はまだ幼くて、なにが起こり、なにが終わったのか、まったく理解することはできなかった。
いまはすべてのものがしんと静まり、あれほど轟々と鳴っていた風の音もなく、号泣のような悲鳴も怨嗟のような低い地鳴りも、なにもかも消えてなくなっている。大騒ぎしていたみんな――人も、黒い闇も、白い光もすべてが、叱られて身を竦めたように収まってしまっていた。
家の中はさんざん揺さぶられたあげく白い光に灼かれたために、ものすごいありさまだった。テーブルもソファもひっくり返り、家具もほとんどが倒れているか傾いているかだ。食器や小物は床に散らばり、窓ガラスの細かい破片がまんべんなくそれらに降りそそがれている。彼女が毎日水をやっていた幸福の木は鉢が割れてみじめに横たわっているし、彼女の母の似顔絵もガラス片にまみれ、クレヨンでできたママの顔は泣いているように見える。
やがて両親が正気づくと、彼らは最初はのろのろと、次第に慌てて身支度を始めた。彼女も乱暴にセーターをかぶせられ、強引に手をひかれて家の外へと連れ出される。
あんまり慌てていたものだから、彼女は友達を忘れてしまうところだった。赤い鼻と頭からぴょこんと飛び出した赤いボンボンが目印の白いモーグリの縫いぐるみだ。
人形を引きずり、母親に引きずられて外に出てみれば、瓦礫と盛りあがったコンクリートや鉄骨で、それまであった道路は道ではなくなっていた。振り返れば彼女の家(アパルトマン)は上部がきれいさっぱりなくなっていて、壁は焼け焦げてぼろぼろになり、いまにも崩れそうなありさまだ。
彼女はそのままぐるりと上方を見あげた。ミッドガル特有の煙った空はすっかり吹き払われ、喉に痛いほど清々しくも冷たい空気が彼女の肌を包みこんでくる。風はなく、あれほど荒れ狂っていた夜空も静まり返っている。
そう、夜空。
彼女は初めて星を見た。
彼女の知っている夜空はスモッグで灰色に曇り、どんよりと重く塞がった天蓋だけだ。ミッドガルではそれが普通だった。どこまでも見通せそうな澄明な空は、見つめていると底のない淵を覗きこんでいるようで、彼女はかえって怖くなった。
思わずぶるりと慄えた彼女に気づいてか、母親がしっかりと手を握ってくれる。そうして彼らは歩きはじめた。父も母も荷物をひとつずつ持っている。彼女はモーグリの人形を抱いていた。彼らの手に残ったのは、おたがいのほかはそれだけだ。
彼らは瓦礫のあいだを長いあいだ歩いて、ある家族が身を寄せている路地に出た。合流した家族はさらに歩き、螺旋列車の軌道を辿って下街(スラム)へ向かっている人々に出会い、列に加わった。
それから彼らはだんだん大きな団体となり、ところどころで同じような避難民たちを拾って吸収しながら線路上を流れていく。話し声はあまりしなかった。誰も昨夜の嵐はすごかったねとも言わなかったし、無事でよかったねとも声をかけあわない。ただ黙々と下に向かって歩いていくだけだ。
ミッドガルは巨大な円盤状の空中都市だった。八つの魔晄炉と機械塔、そして無数の支柱にささえられ、巨大なプレートがスラムをすっぽりと覆っている。この線路はその円形の都市をぐるりと螺旋状にめぐって地上に達しているはずだった。
その線路の上を、人々は川になって流れていく。
低いところへ、より低いところへと淀みなく。
その流れの中で、彼女は黙ったまま歩いていた。右手に人形をしっかり抱き、左手には母の手のひらの少し汗ばんだ温かい感触がある。それだけがいまの彼女のすべてだった。
どこへ行くのとは、彼女はなぜか訊けなかった。訊いても、たぶんママが困るだろうと思ったからだ。
人々の波は押しあうこともなく、逆らうこともなく、自然に流れていた。足音と荷物を引きずる漫然とした騒音のなか、話し声もなにもなく、ただひたすら確実に、ゆっくりと。
ところが、突然その流れが断ち切られた。悲鳴とどよめきとが津波のように人々の流れの中を逆行してくる。
「崩れる！」「危ない！」そんな声があちこちから湧き起こった。大人たちの大きな影にかこまれたままの彼女には、なにが起こっているのかまるでわからない。彼女に見えるのは真上の晴れた空だけだからだ。
どっと押し寄せてきた人々はあちこちでぶつかりあい、押しあい、なだれこみ、無秩序に渦を巻いた。
彼女と母親はおたがいの手をしっかりと握り、父親がひとりの男を押しのけるようにして彼女のほうへと手を伸ばしてくる。
だが、その父親は横合いからなだれてきた人波に呑まれた。父の名を叫んだ母親の手が一瞬緩む。
彼女は背中を誰かの膝で突き飛ばされ、思わず母の手を放してしまった。倒れながら彼女は母の名を呼ぶ。
幸いにも彼女は誰かに踏まれることはなかったが、膝をすりむいてしまった。手のひらがこすれて痛い。それ以上に、自分より大きな人々がどこへとも知らずなだれていく、その恐怖感が彼女の中にまで沁みこんできそうで、とても怖かった。
そしてさらに、ぞくりと背筋が騒ぐ。左手の母のぬくもりがまったくなくなってしまっていたからだ。
「ママ！」彼女は叫んだ。
左右前後にどよめく人波のむこうで母親の声が彼女の名前を狂ったように喚いている。
彼女は大人たちの動きに押されながらも、その声の方向を定めようとぐるぐると視線をまわした。だが、母親の声も、彼女の呼び声も、同様の叫びと悲鳴に引きちぎられ、細かく裂かれて消えてしまう。
それでも彼女は母親を呼び、叫びつづけた。
＊＊＊
クラウドが飛空艇ハイウィンドのブリッジに入ると、シドが無線機に向かって怒鳴っているところだった。
「だからよう、ハイウィンドで避難民を運べったって、全員乗せられるわけねえだろ」シドはマイクを少し遠ざけ、クラウドに向かって渋面を作ってくる。口にくわえたままの煙草がその動きに合わせて上下に揺れた。
「ドミノ市長だ。こっちが地上に降りてから、ずっとこれだぜ」こっそりと囁いてからパイロットは無線に向きなおった。「ミッドガルはもう、安全なんだから、いまあんたのいるキャンプを拡張すりゃいいだろ。でなきゃ、近くに新しいのを造れよ」
ブリッジにはほかに黒猫が一匹、シドのそばで欠伸をしているだけだった。あとは誰もいない。乗組員たちは総出でエンジンの点検にでも走りまわっているのだろう。
なにしろ、大空洞から脱出したさいに、この飛空艇はあちこちをぶつけながら不要な部分は切り離してきた。機体は軽くなったものの、エンジンもいくつか投棄しているのでそれほど長距離は飛べなくなっている。空中停止(ホバリング)システムも満足に働かなくなり、現在は地上にべったりと脚をつけている状態だ。
クラウドはコンソールの上で顔を洗っている黒猫を見おろした。「リーブからなにか言ってきたか？」
「タークスと合流できたゆうとったな」黒猫――ケット・シーはぺろりと指のついた前脚を舐めてから顔をあげる。「いまんところ、避難誘導は市長の有志班に任せて、マスターは神羅の残存部隊をかき集めてるとこや」
世界を支配していた神羅カンパニーはミッドガルを本拠地としていたが、世界各地にはまだ支部や兵力組織が残っている。社長がウェポンとの戦いで死亡してからは、重役では唯一の生き残りであるリーブがどうにか会社の軍部を掌握している恰好だった。もちろん神羅の役割も、いまは救助活動や支援活動がおもになっている。
クラウドはパイロットを振り返った。「シド――」
「だーかーら、難民じゃなくて資材なら運んでやるっつってんだろうが。いつまでも、ぐずぐずぐずぐず言ってんじゃねえや！」シドはマイクを叩きつけるようにして無線を切った。「とはいえ、このハイウィンドも、かーなーり、がたがたなんだよな。とっくにハンガー行きだってのに、空中分解しないよう祈っててくれよ。クラウド、おまえさんも乗ってくか？」
「いや、レッドといっしょに崩落箇所をまわって生き埋めになっているのを掘り起こしてまわっている途中だ。本当はこんな使いはしたくなかったんだが」クラウドは軽く肩を竦める。「あんたがいつまで経っても無線に出てくれないからと、ティファが」
「文句は市長のほうに持ってってくれ。長電話になったのはオレ様のせいじゃねえや」パイロットは苛々と叫んだ。「んで、ティファがなにか用か」
「医薬品つきで医者を連れてきてくれと。ジュノンに全部調っているらしい」
「おう、じゃ、とっとと行くぜ」シドは舵輪を握って、あちこちスイッチを入れながら追い払うように手を振った。「ケット・シー、おまえさんも降りな」そして艦内マイクに向かって怒鳴りつける。「野郎ども、エンジン手動(マニュアル)で火入れろ――冷却効率がなんだって？ いいんだよ、ジュノンを往復できりゃ」
反論しているらしい乗組員とシドの怒鳴り声を背に、黒猫が肩に跳び乗ってくるのを待ってクラウドはブリッジを出た。
乗組員たちが忙しそうにエンジンルームのほうへ駆けていくのを見やりながらクラウドは甲板に行き、タラップをおりて地上に立つ。その途端、背後で飛空艇ハイウィンドがぶるりと大きく震えた。剥き出しのエンジンがけたたましく唸りはじめ、本当に飛べるのかと疑いが湧くほど派手に煙を吐き出しはじめる。
そしてハイウィンドは強風を叩きつけながらゆっくりと上昇していった。荒野の砂が巻きあがり、ちょっとした竜巻が周囲で発生する。パイロットたるシドの性格を表わすように、ハイウィンドは轟(ごう)とジェットを吹かし、瞬くまに飛びすぎていった。荒野にはクラウドとケット・シー、そしてクラウドが乗ってきた単車(デイトナ)が横倒しになって取り残される。
「なんやかやゆうて、飛びまわるのが好きなんやから」ケット・シーがクラウドの首にかじりつきながら上空を見あげた。「大空洞から脱出してまだ一日も経っとらんのに、元気なおっさんやな」
倒れたバイクを引きあげてエンジンをかけながら、クラウドはミッドガルのほうへと目を向けた。
黄砂にけぶった灰色の小山。
かつては世界最大を誇り、科学の最先端の結晶として聳え立っていた空中都市は、いまでは灰色の瓦礫山と化している。メテオの灼熱した嵐に晒され、ホーリーのエネルギーに灼かれ、鋼鉄の要塞もさすがに力尽きたといったところか。プレートはあちこち崩落し、きらきらと電飾されていたビルの林は古くなって欠けた剣山のようだ。中央にあった神羅カンパニーの本社ビルも、ウェポンとの相打ちで立ち往生しているように見えた。また、都市のそこかしこで煙があがり、ほんのわずか炎が閃いて、しゃっくりのように瞬いている。
クラウドはデイトナに跨り、アクセルをまわした。ギアを蹴るように入れて急発進すれば前輪が跳ねて浮きあがり、耳もとでケット・シーが悲鳴をあげる。前方に体重をかけて強引に押さえつけると、車は砂煙をあげて荒野を横切りはじめた。
被災現場であるミッドガルまではそうたいして距離はない。数分も走っていればスラムの入口で蠢く難民の群れが見えてきた。
多くの人々はメテオ落下前にスラムや周辺の都市、仮キャンプなどに避難を完了していたが、それ以上に大勢の市民がまだ都市内に残っていたのだ。リーブや市長の避難警告が届かなかった者や、届いていても楽観していた者、なんらかの理由でとどまった者など、事情はさまざまだろう。
しかし、都市の形骸が残ったとはいえ、ほとんどのビルは崩壊し、水道もあちこちで分断され、もちろん電気の供給もない。そうした状態では、便利さに慣れた上層市民が何日も生活できるものではなかった。ミッドガルの八つ――いや、壱番魔晄炉はクラウドたちは爆破したあと修復していなかったから、正確には七つだ――の魔晄炉はいまだ無事に建っていたが、発電所で電気を作っていても、送電のための電線や中継所が消失していては豆電球ひとつ点けられない。
そうしていままでの便利な生活を諦めざるを得なくなった人々が、いま地上に流れてきているのだ。
これらの人々は、星になにが起こり、なにが終わったのか、おそらく理解していないに違いなかった。実際、星の体内のさらにその奥まで行って帰ってきたクラウド自身、説明しきれるものでもない。
ジェノバのことも、セフィロスのことも。
エアリスのことも、セトラののことも――
どのみち、語ったところで、いまさらなんの意味があるだろう。大事なことはちゃんと星が憶えていてくれる。
「結局」肩の上でケット・シーがのそりと動き、埃っぽい毛皮をこすりつけてきた。「メテオやホーリーによる終末と引き換えに、星はなにを支払ったんやろ」
「さあな」クラウドは難民たちの列に近づきすぎないうちにバイクを停め、エンジンを切った。
メテオとホーリーの対消滅で、少なくともミッドガルは壊滅してもおかしくはなかった。それが、これだけの人が助かったのだ。代わりに犠牲になったものがなにかあるのではないかと、ケット・シーでなくとも不安になる――
そこでクラウドは眉を寄せた。「ケット・シー、あんた、ロボットだよな？」
「そや」
旅のあいだに何度も訊ねたことではあるが、このロボットはなぜ、こう不安めいたことを《考える》ことができるのだろう。クラウドはしばらくのあいだ、じっと目を閉じて疑問をぐるぐるとまわしていたが、やがて吐息ひとつつくとバイクを押して歩きはじめた。
この黒猫ロボットが、ともすれば人工物とは思われないようなことを発言するのはいつものことだ。本当に《感じて》いるのかどうかはともかく、リーブのロボット作りにはなにかしら不可解な魔法が絡んでいるに違いない。あまり追求しないほうがよさそうだ。
ともあれ、星は無事に存在している。そのうえ、予想したよりも遥かに多くの人々が救われたのだ。
星はライフストリームを解放してメテオとホーリーを消滅させた。
シドに言わせれば、怖くて慄えながら小さく閉じこもっていた宇宙の子どもが、ほんのちょっと自分を解放した。そういうことなのだろう。
遥か昔にやはり隕石(メテオ)として落ちてきたジェノバ。そこから始まったなんらかの歪みが、いまやっともとに戻った。
終末の夢は遠ざかり、みんな生きて、歩いて、望む明日へとその歩みを繋いでいくことができる。
星も、おれたちも――すべてが。
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