１
かれは、あがりかける息を必死で抑えつけながら、夜のなか、剣をかまえたまま動かずにいた。
ソルジャーになってからというもの、汗などほとんどかいた憶えがないというのに、ひたいがじわりとしてきているように感じてならない。剣を持った手のひらは湿っていて、柄に巻いた革がべっとりと貼りついてくるようだった。
周囲はほとんど暗闇。閉じこめられているわけでもなければ、洞窟にはいりこんでいるわけでもない。ただ、空に月はなく、星は厚い雲にさえぎられ、ソルジャーの目でもようやく、うっすらと起伏のゆるやかな大地が見えるだけだ。
かれは動けなかった。ほんのわずかな身動きの音も、生命に関わる。いまはそういう状況だと思っていた。呼吸も、口をあけて喉をひらかなければ、自分の耳にも鬱陶しいほど大きく響きそうだ。それなのに、心臓はどんどん跳ねあがってくる。肺が大量の空気を求めるように喘ぎはじめる。
人間としてこれまで培ってきた、条件的とも言える神経反射。緊張すれば汗ばみ、心臓の鼓動が早くなる。肉体的な反射ではなく、思考からくるこの症状は、ソルジャーになっても変化しないらしい。
鬱陶しいと思うと同時に、どこか安堵している自分。
望んでソルジャーになったというのに、おかしなものだ。
臨験体として志願した兵士は二十人。そのうち、目を醒まさなかったのは十八人。残るふたりのうち、ひとりは自分で、もうひとりは魔晄中毒を起こし、そのまま科学部門に残された。
成功例だと、白衣の連中は喜んでいたな。
だが、目を醒まさなかったかれらと自分との結果のちがいがどこにあるのかは、だれにも答えられなかった。
ただ適性のちがいだろうと。とにかく移植臨検体としての最初の成功例だ、データをと。そして、こまごまとした注意事項。
免疫力の高さ、代謝機能の迅速さ、それによるエネルギー消耗率と回復率。いろいろなことを、いろいろな数字と記号で説明されたものだ。交感、副交感神経の作用以外に、体調が変化することはまれ。病気にもならないはずだし、怪我もあっというまに治る。異常な体力低下、思考力低下をおぼえたら、ただちに申し出ること。などなど。
ソルジャー募集を呼びかけた担当官は、臨床実験だなどと、そんなこと、ひとことも説明しなかった。きっと以後は、知らずにソルジャーをめざす者が増えるのだろう。
俺という成功例が出てしまったのだから。
神羅は、なにがなんでもこの世界が欲しいらしい。二十人を犠牲にして、ひとりの戦士を産み出すという非効率的な実験、そんなものに望みを賭けるほどに。
この世界のすべてを手に入れて、魔晄エネルギーの秘密を手にしようとしている。
だが、かれには関係のないことだ。いまはただ、普通の人間だったころには知らなかった、得体の知れないひとつの渇望があるだけ。
なにかが足りない。そんな気がするのだ。
たったひとつのことを求めている。それが、なんなのかはわからない。
あるいは、自分がここにいることの意味だろうか？
かれは苦笑した。あれこれと考えている自分がおかしい。この静寂のなか、一瞬で命運が分かれる瞬間がいつ来るかというのに……こうして剣を抜き、かまえ、息をひそめているというのに、頭の中は思考のノイズばかりだ。
くだらないことばかり、まるで自分に暗示をかけるかのように同じことを考えている。
この無限ループを描く思いを、断ち切るか、呑みこまれるか。
戦士と狂人と、なにをもって区別する。俺と目を醒まさなかった連中と、どうちがいがある。
自分の中のなにかに揺さぶられつづけている、この恐怖、絶望感、そして混沌。これをなんとかしないかぎり、いずれ俺も、あいつらの仲間になるだろう。そんな気がする。
なにか……自分の求めるたったひとつのなにかを、耐えられなくなる前に見つけなければと。
ふと、思考が止まった。周囲の静寂と暗闇が、かれの全身に沁みこんでくる。
たぶん本能だったのだろう。それが戦士のものなのか、ただたんに生きようとあがくちっぽけな生物のものなのかはわからないが、とにかく、いままで考えていたことが突然に鳴りをひそめ、気がつけば神経を張りつめている。
そして闇が動いた。
かれはそれを確認することもなく動く。頭を沈めながら身体を返し、剣を立てる。
がき、と刃がなにかを捉えた。いや、捕らえられたのかもしれない。いずれにしても、そうして剣を立てていなければ、その鋭く頑丈な爪は自分の顔を横に裂いたことだろう。
闇に慣れた目に、ぼんやりと浮かぶ相手の輪郭。
闇空をさらに黒々と切り取って、そびえる巨大な竜の影。その中でぎらぎらと輝く、青とも赤ともつかない氷の炎のような眼。鱗がわずかにぬめり光り、翼がゆっくりと上下している。
こんな大きな獣が、どうして音もなく動けるのだろう。
ドラゴンはしかし、もう気配を殺すことはやめたようだった。ひと声吼えると、爪を左右に揺すり、かれをはじき飛ばす。
高熱の蒸気のようなブレスが、地に転がったかれを追いかけてきた。
かれは短く罵声を飛ばした。その熱に身体は耐えられるかもしれないが、人間として育ってきた感覚には耐えられない。
剣を握った手の中で、柄に埋めこんだ珠が光った。そこから全身へと、一瞬のうちに力のさざ波が起こる。
かれは無意識にその力を放出した。周囲に膜が形成され、いまにも、かれを呑みこもうとしていた熱を遮断する。
手の中で光った小さな青い珠。原隊に復帰する前、研究者のひとりにお守りだと渡されたものだ。かれの全身に沁みこんでいるはずの魔晄エネルギーが物質(マテリア)化したものらしい。濃い溶液の中で結晶が精製されるように、偶然にできあがるものだそうだ。
偶然の産物であろうとなかろうと、とにかくいま、かれの中にあるなにかの本能がこれの使いかたを覚えた。
珠からあふれてくるエネルギー、その流れ(ストリーム)を、かれの能力はきちんと把握する。あっというまにつながる知識と理解。
いま必要なのは、力。
ドラゴンの吐き出す熱を押しこみ、相手を退けるためのパワーだ。
そう考えるだけで、かれの全身をエネルギーが満たした。手のひらから、あるいは周囲の大気から、どっと押し寄せてくる。
かれの想像どおりに、そのエネルギーは実体化した。ドラゴンの身体の内部からその厚い皮膚を突き破り、氷の穂先が飛び出す。
地を揺るがすような咆哮とともに、ドラゴンの首がのけぞった。
魔法の氷はすぐに消えたが、それによって傷つけられた肉はもとに戻らない。翼が震え、痛みにもだえるように太い尻尾が左右に振られた。でたらめに振りまわされる前肢や首、後脚はその場で足踏みを繰り返す。
血を撒き散らしながら、もんどりうった巨大な獣は、怒りの眼をまっすぐ、かれに向けてきた。
そして、がっと上下に大きくあけられる鋭い歯列の大きな顎。
かれは剣を握りなおした。だが魔法を使うのに集中していて、まだ体勢が直っていない。
一瞬、ひやりと背筋を駆けのぼってくる恐怖感。
しかしドラゴンは、そのまま悲鳴をあげた。
いっぽうの羽が夜闇の宙に舞い、さらに噴き出す体液。めぐらそうとしたらしい太い首は、根もとからはじけ飛んだ。
ゆっくりと倒れる大きな体。
地響きをたてて、それは荒野に横たわった。最後まで動いていたのは尻尾だったが、それもやがて力なく放り出されたものだ。
ふたたびの静寂。
かれは剣をかまえたまま、中途半端な姿勢で茫然としていた。
なにが起こった？
あたりは、もとの暗闇だ。
いや、なにか動いている。小さな光がいくつか。軍用の携帯ライトだ。
「だれかいるか？」
「第五中隊、全滅か？」
ぱらぱらとかけられる声に、かれはようやく剣をおろした。
だが完全に背筋をのばしたところで、すぐにぎくりと身体が硬直する。
ドラゴンの死体をまわり、音もなく近づいてきた人影。
手には抜き身の剣、いや、刀というものだ。闇の中だというのに、その鋭い刃がぎらぎらと輪郭を強調している。
それを持つ人影は、近づいてくるごとに、かれのソルジャーの眼にはっきりと浮かびあがってきた。とび抜けた長身、長い銀の髪、切れ長の細い目は碧(あお)く、濡れたように光っている。
なによりも、その圧倒的な存在感。なぜすぐに気づかなかったのかと思うほど、かれに向けて威圧をかけてくる。
なんだ、これは。
目が……目を逸らすことができない。
長身の男は黙ったまま、刀をおさめる気配もなく、ただじっと立ってこちらを見つめているだけだ。なにも言わない。なにも動かない。
「第五中隊の者か？」
その問いかけは、その男の口から出たものではなかった。金縛りが一瞬にして解けたかのように、かれは横手へと顔を向ける。
数人の神羅兵。ああ……味方か。「そうだ……西へ進軍中、ドラゴンの襲撃に遭った」
「生き残りは」
そう訊かれて、かれはやっと部下たちのことに思いいたった。戦いとソルジャーの力にあまりにも集中しすぎていて、ほかのすべてのことを忘れていたのだ。「……俺だけだ」
おそらく周囲には、五十人ほどの兵士の死体が散乱していることだろう。闇でよかったと思う。そうとわかっていても、実際に目に飛びこんでくる光景よりはましだ。
「おまえが第二号のソルジャーか」
突然、低い淡々とした声が、かれの耳を打った。かれは目を戻し、ふたたびあの碧(あお)い眼と視線がぶつかる。
だれだ、こいつは。
相手はわずかに目を細めた。「そうか、移植型としては第一号だったな」それから、かれは長い刀をひと振りし、スライドして、はめこむように鞘におさめる。「部隊が全滅では、なにもできまい。俺の麾下にもらう。名は？」
かれは、とっさには応えられなかった。
碧い眼がさらにまっすぐ、かれに据えられてくる。「名は」
「アレン」かれは、かすれた声で言った。「ソルジャー・アレン」
「俺はセフィロスだ」
そう言った銀の戦士の手が、ゆっくりとこちらにあがってきた。
◇
ぱしっ。
ファイルで頬をたたかれたのだと気づいたのは、二回ほどまばたきしてからだった。目の前には、あのころと変わりのない銀の英雄がまっすぐ見つめてきている。
荒野の一角、組みあがった原始時代の遺跡のような場所、その陰になったところに、さらに幌をかけて臨時敷設した作戦本部、そこで周辺の地図をひろげ、メモをピンで止めたテーブルを、かれらはかこんでいた。
「なにを寝とぼけている」セフィロスがわずかに眉を寄せた。
「アレンがぼんやりしてるなんて、めずらしいな」クラウドが無線をさし出しながら言った。「さっきから、ザックスが呼んでるのに」
アレンはそれを受け取り、吐息を抑えた。本当にどうかしている。この土地のことを考えているうちに、過去をふりかえっているとは。
あのとき、俺は見つけたのだろうと思う。
求めていたなにかと、それを探していた自分とを。戦士と狂人とを分ける、決定的ななにかを。
いつか自分が還るところ、すべてを託すべき大きな存在の片鱗を。
それに気づいたのは、だいぶあとになってからだったがな。
アレンは無線のスイッチを入れた。
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