ちびくら
形が変わっても、風に吹かれちぎれてしまっても、あんたはちゃんと雲になるんだよ。
そりゃ、ときには太陽を隠すかもしれない。月を見えなくしてしまうかもしれない。
あるいは雨になって地上に落ちてしまうかもしれない。
でも、すべての川は海に繋がってる。
どれだけ遠まわりして、どれだけ時間がかかっても、あんたは広い広い海に出て、そこからちゃんと空に昇れるんだ。
あんたの名前はそういうものなんだよ。
――そう子守唄代わりに繰り返してくれる母さん。
でもおれ、名前ってよくわからない。
母さん以外に誰もクラウドって呼んでくれないもん。
おれがクラウドだっていうのに、なにか意味あるのかな。
おれ、おれだっていうだけじゃだめなのか？ だって、いちいち名前を教えるの面倒だよ。
教えたって……誰も聞いてくれないのにさ。
「クラウド」母さんが呼ぶ。
だけど、それだけだ。
彼は呼ばれるままに、てくてくと母親のそばへと歩いていった。
「母さん、これから宿屋でお仕事だからね。母さんのいないときに危ないことして遊んじゃだめだよ」
うん。このあいだのお仕置き、まだお尻が痛いもん。
「夕飯がちょっと遅くなるけど、ああそうだ。おまえもう、鶏に餌をやれるかい？」
クラウドは頷いた。いっぱい突つかれるけど。
母さんは家にいないことのほうが多い。かまどや食器にはさわるなと言われているから、クラウドは台所には入らないことにしている。だから、あまりお手伝いはできないのだ。
外で遊んでおいでと追い出されることもあったが、ひとりで広場をぶらついていてもつまらない。《おしごと》があるのはとても嬉しかった。
「いいかい」と、彼女は時計の前にクラウドを連れていく。「この短い針がこの数字に重なったら、テーブルの上にある餌籠を持って鶏のところに行くんだよ」
クラウドは頷いた。
「鶏をいじめちゃだめだよ」
いじめられるの、おれのほうなんだけど、母さん。あいつら、すごく乱暴なんだ。
「じゃあ行ってくるからね」と、彼女は出ていった。
クラウドは彼女の消えた扉をしばらく見つめてから、時計に向きなおった。
彼女の言った時間になるまで、彼はそのまま待った。途中で立っているのも疲れてきたので、ずるずると椅子を持ってきてそこに坐り、再び時計を見つめる。
眠くなってきたが、彼は眠らなかった。《おしごと》を、ちゃんとやらなきゃならないからだ。
お腹がすいてきたが、これはどうしようもない。母さんがいないと食べものは出てこないのだ。
延々と彼は待った。
ついに短針が５という数字にかかる。クラウドは餌籠を持って庭に飛び出した。
庭といっても、クラウドのベッドぐらいの菜園と鶏の小屋がちょこんとあるだけのものだ。すぐに垣根があって、四歳のクラウドの世界はそこで終わっていた。
村の広場は、彼にとっては違う世界で、そこではクラウドはひとりなのだ。誰も彼を見ないし、声をかけないから。
少なくとも家には母さんがいた。夜は必ずいて、いっしょのベッドで寝てくれる。
だからクラウドは、家で遊ぶほうが好きだった。《おしごと》があると、もっといい。なぜなら、母さんは遊んでくれることは滅多にないし、ごはんの支度とか掃除とか、洗濯とか、いろいろ《おしごと》していたからだ。いっしょに《おしごと》させてくれると、もっと楽しい。
クラウドは二羽の鶏を小屋から出し、突つかれ蹴られしながら、餌をひと掴みずつ地面にばらまいていった。
鶏というのは乱暴で、遠慮がなくて、すごく食いしん坊だ。でも、こいつらは毎朝卵をくれるので、蹴飛ばしたりしちゃいけないんだ。
黙々と、餌まみれになった手がこそばゆくなってきても、彼はその作業を続けた。
夕暮れの空に遠くから狼の遠吠えが聞こえてくる。ニブルヘイムにカラスはいない。その代わり、スピードサウンドやズーが、こうした夕方には騒ぎはじめるのだ。
日が暮れる頃には村の中も真っ暗になるから、滅多に人が出てくることもない。
クラウドは、自分の手がもっと大きかったらこの作業も早く終わるのになと考えた。与える餌よりもこぼれる量のほうが多い。
彼は憮然としながら、ふと目をあげた。
茶色の垣根の上に顔が載っている。
クラウドはまばたきし、作業も忘れてそれを見つめてしまった。
それは小さな女の子の顔だ。彼は自分よりも小さい子を見たことがあまりなかったので、ちょっとびっくりした。
彼女は垣根の横木にぶらさがっているらしい。細い小さな腕をよっこいしょと垣根にひっかけ、さらに身を乗り出してくる。
そしてまた、じっとこちらを見つめてくる。
クラウドも黙って観察していた。
というよりも彼は内心、狼狽していた。大抵、こうして目が合ったときというのは、誰もが先に目を逸らしていたからだ。母さん以外、こんなふうにまっすぐ見つめてくるのは誰もいないし、どうすればいいんだろう。
………。
………。
クラウドは鶏の餌を抱えたまま、女の子は垣根にぶらさがって顔だけ出したまま、長い長い時間が過ぎた。
突然、女の子がぱっと笑う。
びくうっ。
クラウドは餌籠を抱きしめてしまい、シャツの前が粟だらけになった。だが、彼は気がついていない。
彼女はまた、ぱっとした動作で指を突きつけてくる。「お日さま(サニー)！」
晴れ(サニー)？
クラウドは眉を寄せた。「おれ……おれ、曇り(クラウド)だ」
「きらきら、サニー」
「クラウドだってば」
「お日さま！」
「クラウド！」
「お日さまがいい！」
「やだ！」
そのとき大人たちが駆けつけてきて、女の子を抱いて垣根のむこうへ連れていってしまった。ひとり、大きな男がこちらを指さし、なんだかよくわからないことを怒鳴っていったみたいだ。
それはよくあることだったから、べつにいいんだけど。
クラウドはむっつりと黙りこみ、遠ざかっていく女の子の泣き声と大人たちの足音を聞きながら、雌鳥に足を突つかれつつ立ちすくんでいた。
「……おれ、クラウドだもん」
あの女の子が母さんの言う《隣の可愛い赤ちゃん》だということを知ったのは、だいぶ大きくなってからだ。
その夜、彼はベッドの中で丸くなり、繰り返し自分の名前を呟きながら、かたく誓っていた。
うん、おれ、クラウドになる。
違う名前で呼ばれるのやだもん。
おれ絶対、クラウドになるんだ。