ちびくら

　おうちの戸棚は、小さいが頑丈だ。
　壁にしっかりと打ちつけられたそれは、鉄壁の守りとばかりに扉が閉じられ、抽斗は重い。ガラス戸はところどころ曇っていて、だが、いっぽうは無防備にあけっ放しだった。

　それには、いろいろなものが詰まっている。
　朝食のシリアルと牛乳を入れる白いお皿だったり、クラウド用の小さなカップだったり、母親の使う食器も一式、また、お茶を淹れる道具もいちおうそろっているのだ。
　そして、たまにはクッキーとかマフィンとか、食べものもそこにしまいこまれていることがあった。
　そしていま、クラウドは棚からちょっとだけはみ出ている菓子皿を見あげていた。爪先立ちして一生懸命手をのばしても、それにははるかに届かない。

　……おやつの時間なんだけどな。
　母さん、どうして低いところに移しておいてくれなかったんだろう。
　おれ、なにか悪いことしたか？
　クラウドは心あたりを探した。

　よく憶えてないけど、叱られるようなことはしていない気がする。
　そうだよな、お仕置きとは言われてなかったよな。うん。
　確信が持てると、クラウドは椅子をずるずると引きずってきた。最近は踏み台を使うということを覚えたのだ。
　椅子にしっかりと乗りあがり、さらに爪先立ちして、やっと狙っていた菓子の皿に手が届く。

　よし。
　がっしりと皿の端を握ったとたん、クラウドはよろめいた。
　あわてて空(あ)いているほうの手をガラス戸につっぱり、転倒は防いだものの、つかんだ皿が斜めになって、中にはいっていたクッキーがぱらぱらと頭の上に落ちてくる。
　そして手をついたときの衝撃が伝わったのか、目の隅でカップがぐらぐら揺れているのが見えた。

　クラウドはとっさに足を出した。なぜかといえば、両手がふさがっていたからだ。正確には、両手がふさがっていると思っていたからだ。
　ガラス戸のあいている棚の中に足首を突っこみ、ひっくり返りそうになっていたカップや崩れそうになっていた皿を蹴りつけて、それらが落ちるのを防ぐ。
　はたしてクラウドは、いちばん上の棚に右手でぶらさがり、左手でガラス戸を押さえ、右足を棚に突っこんだまま、二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなった。ついでに頭の上には、こぼれたクッキーの一枚が載っている。
　ええと……どうしよう。

　どうしたらいいんだ？
　かろうじて左足の爪先で椅子を探れば、がたがた、がたん、と大きな音。同時に、いくら足を動かしてみても、椅子の感触は爪先に戻ってこなかった。
　クラウドは完全に戸棚にぶらさがっていた。
　……ええと、ええと。

　長い長い時間（正確には数分）、クラウドは微動だにせず（正確には動けず）、トカゲのように戸棚に取りついたまま、一生懸命考えた。
　おれ、どうしたらいい？
　引き返す？　どうやって？
　どっちの手を動かせばいいんだろう。それとも足？

　ひくっと息を吸いこむと、それとともに大量の不安が、かれの胸の中に流れこんできた。
　もしかして一生、このままか？
　おれ……おれ、地面に帰りたい！
「うわあああん、母さああああん」

　そのとき、かれの背後でかすかに玄関の鍵をあける音がした。
　そしてドアがひらき、閉じる音。ゆっくりとした足音が、だんだん近づいてくる。
「クラウド、いるの――」母親ののんびりした声は、しかし途中で叫び声に変わった。「あんた、なにしてるんだい！」
　クラウドは限界だった。手がずるりとすべり、だが足は戸棚に噛まれたままだったので、今度はひっくり返って足でぶらさがる恰好になった。頭の上に載っていた最後のクッキーが、ぽとりと床に落ちて割れる。

「母さあああん」
　逆さまになったクラウドの視界の中で、母親が荷物を床に放り出して駆け寄ってくるのが見えた。
「今日は早く帰ってくるから、おとなしくしてろって言ったのに！」ぶつぶつ言いながらも、彼女はクラウドを抱きかかえ、足を引っこ抜いてくれる。
　ようやく床におろされると、クラウドはどきどきする胸をさすりながら、よろよろとテーブルのほうに移動した。

「まったく、こんなに散らかして……」てきぱきと棚の中を整え、こぼれたクッキーを拾い集めた母さんは、最後にクラウドの手から皿を取りあげた。「おやつは母さんが帰ってきてからって言っただろ。我慢できなかったのかい？」
　言ってないよ。
　クラウドは、ぶんぶん首を振った。
　母親がじろりと睨んでくる。クラウドは思わずテーブルの脚にかじりつき、その下にもぐりこんだ。

「とにかく」母さんは皿を流し台に突っこむと、両手を腰に当てながらふりかえってくる。「今日はおやつ抜きだよ」そして軽く吐息をついた。「その代わり、母さんがケーキ作ってやるから、待ってなさい」
　ケーキ？
　荷物を取りに部屋を往復する母親を、テーブルの下から目で追いながら、クラウドはまた、どきどきしはじめる胸を押さえた。
　なにが起こるんだ？

　母さん、帰ってくるのが早いし、お仕置きしないし、馬鹿って言わないし、変だ。
　母親はてきぱきと道具を出し、さらに小麦粉を櫃から引っぱり出している。「バターと砂糖と干し葡萄と……ああ、ひさしぶりだねえ、ケーキなんか作るのは」
　彼女は鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌がいい。クラウドはちょっと心配になった。「母さん、だいじょうぶか？」
「手伝うことなんか、ありゃしないよ。ちょっと時間かかるけど、待っておいで。甘くておいしいの作ってあげるからね」彼女はクラウドのほうをふりかえりもせず、手際よく小麦粉をふるいにかけはじめる。「胡桃があるといいんだけどねえ。こればかりは季節だから、しょうがない」

「くるみ？」
「山でよく採ってくるだろ」とんとんと作業しながら、母親は適当というように応えた。
　なんだか知らないけど、御山に落ちてるのか。それがあれば、母さん、助かるんだな。
　クラウドはくるりときびすを返し、家を出た。母さんはケーキ作りに夢中で、かれを呼び止めもしなければ、釘を刺すような注意も怒鳴りつけてこない。

　本当に、今日はとても変だぞ。
　クラウドは不安でどきどきする胸をさすりながら、てくてくと御山へ向かった。家の横手から伸びている坂道は短い石段につづいている。クラウドはまっすぐ昇っていった。
「ちょいと、クラちゃん！」
　背後から聞き覚えのある声が投げつけられ、クラウドの身体は条件反射で、ぎくりとかたまる。

　とたんに足が石段を踏みすべらし、かれはその場でこけた。
　ごつん、とひたいがぶつかって、とても痛い。
　クラウドはしばらくのあいだ、その場でうつ伏せになって身動きもできなかった。
「あらあら、クラちゃん、あんた不器用ねえ」隣のおばさんが、かれを引きずり立たせ、おでこをさすってくれる。「やだ、たんこぶになっちゃったわよ。だいじょうぶ？」

　おれはだいじょうぶだ。おばさんがくすぐったり、痛いところたたいたりしなければ、たぶん、だいじょうぶ。
　でもなんだか、やっぱり変だ。おばさん、おとなしいぞ。
　クラウドは慎重に彼女を見あげた。
　おばさんは中腰になって、クラウドの顔を覗きこむように微笑んでくる。「クラちゃんねえ、なにか欲しいものある？」

「ない」
　おばさんは笑顔のまま、一瞬、時間が止まったように沈黙した。だがすぐに、クラウドのほっぺたを引っぱった。「いろいろあるはずよ。玩具どう？　積み木とか、着せ替え人形とか」
　クラウドはさらに慎重におばさんを見つめた。ほっぺたをぐいぐい引っぱられるので、そのたびに頭が揺れて、じっとしているのが難しい。うん、いつものおばさんだ。たぶん。「人形？」
　おばさんは手を放した。「よし決まり。ああでも、やっぱり着せ替え人形より兵隊さんのほうがいいよね。あとでティファといっしょに届けるから、おうちで待ってなさいよ」

　えっ？
　いそいそと立ち去っていくおばさんのうしろ姿を見送りながら、クラウドはまばたいた。
　ティファが届くのか？　おれ、人形なんていらないぞ。
　おばさん、どうしたんだろう。やっぱり、今日はみんな変だ。

　クラウドは、たんこぶになったひたいを軽く撫でてから、くるりときびすを返し、ふたたび石段を昇っていった。
　ニブル山はたいてい曇りだ。快晴の昼間でも、どこかしら薄暗く、薄寒い雰囲気を持っている。だがクラウドにはおなじみの景色だった。こうでなくては御山ではないのだ。
　クラウドは、ハンターとともに何度も往復した道を行き、やがてぴたりと足を止めた。
　おれ、なにを拾ってくればいいんだっけ？

　ああそうだ、くるみだ。でも、くるみってなんだろう。
　御山で採れるって、母さん言ってたよな。キノコかな？
　クラウドは、ちょうど細い山道をのこのこと横切っていくそれを見つめた。
　ちがってたら、母さん、そう言うよな。

　うん、持っていこう。
　クラウドは歩くキノコにうしろから近づき、ぱっとしゃがんで、ぱっとつかんだ。
　キノコに悲鳴が出せればそうしたことだろう。驚いたように身を慄わせながら、しかしキノコは、おとなしくクラウドの小さな手におさまっていた。
　クラウドは急いで家に向かって走った。このキノコは、うっかりすると逃げ出すのだ。

　山道を駆けおり、高台の屋敷の横を駆け抜け、石段を跳びおりて、クラウドは家の玄関を突破した。
「母さん、くるみ取ってきた！」クラウドは、台所でボウルの中身をかきまわしている母親に突進する。彼女のスカートを空(あ)いているほうの手で握って、注意を向けてもらえるよう、何度も引っぱった。「おれ、拾ってきた」
「なに言ってるんだい。胡桃なんて、いまどき、どこにもあるわけないだろ」母さんはこちらを見おろしてきながら、小麦粉のついた手をさし出してくる。「また変なものを拾ってきたんじゃないだろうね。見せてごらん」
「変なものじゃないよ」クラウドはそれを渡した。「キノコだ」

　母さんは受け取ったものを、それはそれは長いあいだ握りしめ、無言で睨みつけていた。
　そして、「痺れキノコ(バッテリーキャップ)……」とつぶやくと、彼女はそのまま床にひっくり返ったのだった。

＊＊＊

　母さんはモンスターの痺れ針にやられたんだと、医者を呼んでくれた宿屋のおじさんは言った。
「滅多に村の中に生えるもんじゃないんだがね」おじさんは眠っている母さんのベッドを軽く整えながら、困ったようにしきりに首を振っている。「おまえの母さん、なにも言ってくれないが、痺れキノコ(バッテリーキャップ)でなにをするつもりだったのか、クラウドちゃん知っているかい？」

「知らない」クラウドは応えた。「でも母さん、ケーキ作ってた」
　おじさんはうなずいた。「おまえさんの誕生日だったからねえ」
　たんじょうび？
「それで今日は、早めに仕事を切りあげて家に帰ったんだ。それなのに、気の毒になあ……」そして、おじさんは玄関のほうをふりかえった。「おや、ロックハートの奥さん」

　隣のおばさんがドアをくぐってくるところだ。
　その手に引いているのがティファと見て取ったとたん、クラウドはとっさにテーブルの下に隠れた。
「お日さま(サニー)、たんじょうび！」ティファがまたたくまに駆けてきて、テーブル下にスライディングしてくる。「プレゼント、ティファ、持ってきたからね！」
「ぷれぜんと？」クラウドはテーブルの脚にかじりついた。

「ママがプレゼント渡しなさいって」彼女は手に持っていた紙袋――ピンクのリボンがついている――をクラウドの目の前にさしあげてくる。勢いあまって、たんこぶのできていたひたいにぶつかった。
　クラウドはひたいをさすりながら、彼女から紙袋を受け取り、中のごつごつとした細長い形状を確認する。
　キノコかな？
「あけて、あけて」ティファがテーブルの下にもぐりこんできながら揺すってくる。

　クラウドは周囲を見まわした。「ええと、そっちすわって」とティファを自分の正面にすわらせる。「あけたら逃げるかもしれない。逃げる前につかまえるんだ」
「うん」ティファは拳を作りながらうなずいた。
　リボンをほどくのに苦労したクラウドは、結局、紙袋を破ってそれを取り出す。
　それはキノコではなかった。青い制服を着た兵隊の人形だ。頭は同色のマスクに包まれ、細く小さな銃を肩にかついでいる。

　クラウドはそれを、床にそっと立ててみた。
　逃げるようすはない。
「動かないな」
「うん、動かないね」ティファがうなずく。

　クラウドは床に這いつくばるようにして、その人形をじっくりと観察した。「だれだ、これ？」
「ティファ、知らない」彼女も床に頭をつけて、まるで逆さまに見るようにしている。
「銃持ってるな」
「じゅう？」

「ものすごく大きな音がして、吹き飛ばされるんだ」クラウドは身を起こし、ぶるりと震えた。「すごく強い武器なんだぞ」
「つよい？」ティファも身を起こす。
「うん」クラウドはうなずく。「銃持ってると強いんだ。だから、こいつも強い」
「ティファよりつよい？」

　クラウドは考えこんだ。どうだろう。
　ティファは床にぺったりとすわったまま、「えい」と人形に平手打ちを食らわした。
　兵隊は、ぱたりと倒れる。その拍子に脚が一本はずれた。
「ままあ！」ティファがふりかえって叫ぶ。

　おばさんが近づいてきて、テーブルの横でしゃがみこんだ。「もう、だめじゃない。さっそく壊しちゃって」と人形と人形の足を拾いあげて、ぱちんと嵌めこむ。「ほら、これでもとどおり。クラちゃん、もらったものは大事になさいね」
　おれ、なにもしてないぞ。
　クラウドは怪我を治してもらった人形を受け取りながら、ぼんやりとその青いマスクの顔を見つめた。
　ごめんな。もう二度と、ティファと戦わせようなんて考えないことにする。

「今夜は、お母さん、ごはん作れないみたいだから、クラちゃんはうちにお泊まりね」おばさんは両手にそれぞれクラウドとティファの手をつかみ、ずるずると引きずり出した。「ティファ、ちゃんとクラちゃんに玩具貸してあげるのよ？」
「ティファの玩具、ほんとは貸さないんだからね！」彼女は叫んだが、しかし、すぐにもじもじと身体を揺する。「でも、お日さま、たんじょうびなの。とくべつなの」
　やっぱり変だ。
　クラウドはおばさんに引きずられて家を出ながら、また不安にどきどきしはじめる胸を、人形を持つ手でこすった。

　今日は《たんじょうび》で、母さんが早く帰ってきて、ケーキを作って、でも、おれはおあずけで食べられなくて、キノコは逃げるし、母さんは倒れる。
　おばさんはくすぐりもしないし、ティファは玩具を貸すって言うんだ。
　変だよ。
　絶対、変だ。

　………。
　………。
　たんじょうびって変な日なんだな。

THE END.

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