１
西の空に夕焼けの残滓を貼りつかせて太陽が沈んだ頃、スカルド・イーガンはラズロという同僚とともにその大きな屋敷の門前に到着した。
がっしりとした格子の門は重々しく閉ざされ、両側の楼台は石造りの重厚な構えだ。
奥に見える屋敷は臙脂色の屋敷を戴いて、どっしりとした骨太な建物。そのくせ、高い扉を持つ正面玄関やここから見える窓々には瀟洒な彫りものが縁取っている。
イーガンは横に立つ少年に向かって苦笑した。「いいかげん、不貞腐れるのをやめてくれんか」
「いい酒があるからつきあえ」ラズロはむっつりと呟く。「そう言ったよね」
「嘘ではないだろうが」
「こんな豪華な宮殿で飲む酒のどこがうまいわけ」
「宮殿というほどでもない。ただの赤月の地方領主の館だ。それも秘書用の別荘」
ラズロは目だけで左右を見まわした。「……広いね。忍びこみ放題じゃないか」
「不吉なことを言うな」イーガンはわずかにぶるりと身震いする。「あなたの予感は当たるから怖い」
ラズロは吐息を抑えたようだった。頭に巻いた鉢巻の端が肩からするりと前へ落ちる。「承知してるなら、きみにも油断はないと思うけれど」
「まあな……」
憮然と俯けば、ラズロがじろりと非難のこもった青い目を向けてきた。「ルーグナーの継承者争いに首を突っこむからだよ」
「そこまで突っこんでおらん。ほんの爪先ほどだろうが」顔を大きくしかめて睨み返したイーガンだが、しかし、その勢いが弱くなってしまったことは否めない。
実際、この屋敷に来たこと、そして以後の密約や取り引きはオベル洋上会議にはまだ通していないことだった。十中八九、認可は通ることであろうが、いささか独走ぎみであったことは自分でも認めるところ。
だが、そのことについてこの《年上》の同僚が怒っているのかと思えば、「ぼくは対外的な問題はごめんだよ」とあっさり首を振ってくれるものだ。「ああ、カニが食べたい」
「まったく……」イーガンは背後を振り返り、彼らに随伴してきた部下たちに手を振って館の門衛との交渉に入らせた。
赤月帝国南部、カナカンの湾海から大河を北上してきた位置にあるこの街は、帝国の貿易路、その要衝のひとつとなっている。海からここまでは小さなものなら外洋船で直接遡ってこられるし、大分水を越えればすぐ北がトラン湖だ。首都グレッグミンスターへはさらに陸路を行かなければならないが、水路を利用した交易は帝国にもかなりの利益をもたらしていた。
そしてこの街はもうひとつ、貴族たちの避暑地として知られてもいた。なだらかな丘と閑静な森を街外れに随え、高台からはトラン湖を頂点に大河の流れる広大な草原を見渡せる。
貴族の屋敷はそれらの景観の美しい場所に点々と散らばり、街に比べればひっそりと静まり返っていた。イーガンとラズロが訪れたこの屋敷もその別荘のうちのひとつだ。
しかし、この屋敷の門楼には常ならぬ数の兵士がいる。そしてふたりの背後にも群島諸国からついてきた十数名の艦隊士官たちが整列していた。むろん全員が黒や灰色のマントを羽織り、群島特有の高い軍帽は外して、そうとはわからない偽装をしたうえでだ。
もっとも、ここに彼らが訪れることは屋敷の中の兵士とそれを束ねる上官たちの承知するところである。
イーガンはラズロに身体ごと向きなおった。「将軍に会って、あなたの感想を聞きたいというだけのことなんだがな……そんなに面倒臭い顔をせんでも」
「いつもぼくの表情がわからないと文句を言うくせに、なんでわかるの」ラズロは溜息を落とした。「とにかくスカルド、こういうことはきみのほうが場数をこなしてる。洋上会議に持っていく前に、いちいちぼくに通さなくてもいいだろう」そして腕組みをし、彼は背の高い重厚な門を睨みつけた。「どうせ、ぼくがなにを言ったところで、きみは息子のほうと組むつもりじゃないか。マクドール将軍とこんなところで会見を持つぐらいだ」
「組むというほどのものではないがな……」
「南方小国群に睨みを利かせるのは充分に共犯だよ」
スカルドは十七、八に見える年上の同僚を上から下までじっくりと見つめた。このところ頻繁に赤月宮廷内の勢力の分断や迎合が繰り返されていることは有名だ。将来起こるだろう継承者争いの争乱に備えて、赤月の一将軍、それも現皇帝の息子に与する派と連絡を取るということは伝えたが、それ以上のことを彼に話した憶えはない。
「まったく……興味ないと言うくせに、いつのまに情報を集めてその鉢巻頭の中で組み立てておるやら」
だから油断がならんと苦笑してみせれば、少年はますます憮然と肩を竦める。
やがて門楼のひとつ、そのかたわらにある通用口の扉がひらいたのを見てイーガンは足を向けた。
「そうそう、話は変わるが」とイーガンは門をくぐりながら敬礼してくる赤月の兵士に返礼をし、ラズロが敷地内に入るのを待って続けた。「そろそろ末の娘が十五になるんだが、本人が仕官させろとうるさくて適わん。引き取らんか？」
「だめ」
その即答にめげずにイーガンは食い下がった。「嫁として引き取ってもらうのでも構わんぞ」
「あのね」ラズロは無表情ながらも呆れたような上目遣いをしてきた。「自分より年上の爺さんに娘を嫁入りさせる男親がどこにいるの」
「だめか」
「だめ」
ラズロの指揮する独立艦隊は連合艦隊とは違って群島諸国外に出ることは稀だ。末娘ベルナデットを彼の下に仕官させられるならば、イーガンとしても非常に安心できることではある。しかし、独立艦隊は全群島でも規律と訓練の厳しい部隊でもあった。仕事のひとつひとつは遭難した船の救助や難破船の回収、密漁の取り締まりなどで、連合艦隊や北方艦隊に比べて小さな案件を扱うが、波が高かろうが嵐の中だろうが救助の対象を追いかけねばならず、また、密漁者など悪辣な船に対しては非常に徹した攻撃を加えなければならないこともある。いかにオベル王家の縁者とはいえ、特別扱いもなく生半可な覚悟で乗れる艦(ふね)ではなかった。
ただイーガンの希望は末娘を終身的に独立に所属させることではなく、その厳しい海の掟を彼女自身に教えこむことだった。その点ではラズロの艦に仕官させてもらうのがいちばん手っ取り早いというもの。
だが、こうまでだめだめと来ると正攻法では無理なようだな。イーガンはおもむろに大きくそっぽを向いてみせた。「仕方がない、最初はリヴァイアサン艦隊にでも出してみるか」
変わらない歩調でありながらも不機嫌そうに青い目が睨みつけてくる。「……脅し？」
にやりとする口もとを抑え、イーガンは横目で彼を見おろした。「これが脅しになるぐらいには、娘のことは気にかけてくれとるわけだな」
リヴァイアサン艦隊は南方の海を担当するものだが、警戒する相手は人の乗った船ではなく荒い海で暴れまわるモンスターなどだ。でかい竜が出現となると何隻もの船が総がかりでことにあたる。学業を終えたばかりの経験の浅い者が生き残れるような部隊ではないのだ。娘を殺す気かと訝しげにするのも当然だろう。
ラズロはゆっくりと観念したように片手をあげた。「わかったよ、育ちのいい子を竜退治の荒くれ艦隊に放りこむよりは、ぼくが預かったほうがましだ」
「すまんな」イーガンは半分は本気で謝った。
じろりと、それでもいささかその鋭さを和らげてラズロが横目を向けてくる。「言っておくけど、独立(うち)は厳しいよ」
「わかっとる」
「三年で返すからね」
ああ、やっぱり見透かされているな。それだけの期間を耐えられれば末娘は立派な軍艦乗りになるだろう。また、耐えられずに泣き言をいってくるようならば、おとなしく島での仕事に就かせるか、あるいは嫁ぎ先を探させればいい。
「あれがどれだけ成長することか期待しとるよ」
「……リノさんの血筋だな、まったく強引なんだから」
深々と溜息をつくラズロの肩を、イーガンは笑いながら叩いた。