Will you be my friend?

１

　どこまで歩けばこの重い空気から逃れられるだろう。
　そんなことを考えながら、カーンはそれでも黙々と足を運んでいた。
　ヴァンパイア・ハンターの技術を継いで数年、妖魔退治などをこなしながら大陸を渡り歩いてきた彼である。こんな暗い森を歩くことは造作ないが、いかんせん、先日からどうも調子が悪い。
　後ろをついてくる少年の寡黙さも、暗い森の雰囲気をさらに重くしているようにも思える。
　ちらりと肩越しに振り返れば、黒いシャツに赤い飾り返しのついた袖なしジャケットと同色の短いパンツで、剥き出しの足に草がこすれるのも頓着せず無言でまっすぐ歩いている少年。濃い茶色の長コートで全身を覆っているカーンに比べると無防備に過ぎる恰好の少年は、しかし、ここまでついてくる予定ではなかったのだから仕方がない。
　そうしてまたしばらくそのまま歩きつづけ、小さな山の峠を越えたと思われる頃、カーンはやっと立ち止まった。
　さて、少しは空が見える場所に出た。
　方向を確かめて――
「カーン」
　少年の声がなんの抑揚もなく漂ってきた。
　だが、その声がどうも……自分を責めているような気がしてならない。もちろんそれは、カーン自身の後ろめたさから来るものだとはわかっている。
「……なんですか」
「きみ、方向音痴？」
「三日迷ったあげくに、ようやく気がつかないでください！」
　思わず叫んで勢いよく振り返ったが、少年は驚くこともなくそこに淡々と立たずんでいるのみ。
　カーンは溜息をひとつ落とした。「……まあ、たまには迷います」
「ぼくはあんまり迷ったことはないな」軽く首を傾げて少年。
「普段は海の上でお過ごしのようですから」カーンはまた吐息をつき、これまでの自分の調子の悪さを呪った。
　そう、カーンはここしばらく、目的地から大きく逸れてまったく違う場所をさすらう破目になっていた。
　それもこれも赤月帝国で叛乱が起き、目印にしていた村が焼き討ちにされていたり、頻発している山賊騒ぎに巻きこまれたり、難民の群れに取り巻かれたりと予定外のハプニングが続いたからだ。戦時中の地域を縦断するのがこれほど大変なことだったとは思わず、彼はつい船に乗った。陸路が難しければ海路で大まわりをしてでもと考えたのだ。それがそもそもの間違いだったかもしれない。
　赤月の南方、メルセトからカナカンをかすめ、河をのぼっていくつもりが、乗った船はずんずんと海を南下し、群島諸国のイルヤ島というところに彼を放り出してくれたのだ。
　本気で途方に暮れたのはあれが初めてだった。なにしろ群島諸国。船がなければどこにも行けない。
　ただカーンにとって幸運だったことは、そのとき島では年に一度の鎮魂祭が行なわれていて、その術に詳しいカーンに手伝いができたことだった。その仕事を引き受け、島長から親切にしてもらって、船と、そして案内まで紹介してもらえたのである。
　群島の海と赤月の南部地方もよく知っているということで、この少年が護衛も兼ねてついてきてくれたわけだが……。
　まさか、もう少しで赤月の本領に抜けるというところで山をひとつ間違えるとは。
　しかし少年が、「あっちに古い街道がある」と指摘するのを、「人の多いところは苦手です」と言って近道（と思いこんでいたほう）を選んだ自分の依怙地さ。道がわからなくなったとは素直に言えず、少年を巻きこんだ後ろめたさもありながらここで別れましょうとも言い出せず。
　そうして三日の彷徨の果て、やっと自分の過失を認めて立ち止まれたのだった。
「群島の方々の親切には本当に感謝しております」カーンは瞑目して項垂れた。「もうね、南部小国群を抜けるまでの道案内と護衛であなたがついてきてくれたということだけでも、本当に！　本当に！」
「泣かないでいいから」と冷静に少年。
「だから」カーンはまた思わず彼に迫った。「どうしていっしょに迷子になっていて、そんなにのほほんとしていられるんですか、ラズロさん！」
　カーンは三十に近い年齢、少年はどう見ても十七、八。それでもカーンが丁寧に話しかけるのは本来の性格でもある。それに加えて、この少年がいちおうは軍人だからだ。群島人は船を動かせれば一人前という観念があるらしく、ロープを引くことができれば十歳の子どもでも働くのだそうだ。だから、この年若い少年が艦隊勤務だということも不思議なものではないらしい。
　ただ呆れるのは、見知らぬこの土地で三日もあてもなく歩いていたというのに、この落ちつきぶり――というより、なにも考えていなさそうな淡々とした態度。
　少年――ラズロはじっとカーンを見つめたあと、ゆっくりと口をひらいた。「人間の能力には限界もあるよ、カーン」
「それが？」
　こくんとまたゆっくり頷き、ラズロは変わらない抑揚のない声で続ける。「ウマにもトリにも乗ってないぼくたちが、それほど遠いところまで迷いこんでるとは思えない」
　まあ、それはそうなんですが。「……ウマはともかく、トリってなんですか」
「……イワドリ」
　どういう鳥なんだろう。「乗るんですか？」
「ぼくは乗れないけど」
　ああ、そう。「確かに、馬があったらこんな道に入りこむこともなかったでしょうね」
「ウマも苦手だな」首を傾げて少年。
　カーンは頭の片隅でどうでもいいことを話しているなと思いながらも頷いた。「あなたが乗れるのは船だけなんですね」
「うん」ラズロはきっぱりと頷く。
　褒めたわけでもないのですけど。「これまで不思議にもモンスターと出会っていませんから、それだけでも幸運と思わないと」
「ああ……」ラズロが軽く自分のひたいにまいた鉢巻に手をやった。「王者の紋章、外すの忘れてた……」
　王者の紋章は力の弱いモンスターや妖魔を遠ざける効果のある紋章だ。この効果は宿した本人の強さによって変化する。あまり出まわることのない希少価値のある紋章だが、よくよく外国人を案内することの多いらしい少年には必需品として与えられているのかもしれない。
「なるほど、それで……――」カーンは頷いて納得しかけた。
　そう、納得しかけたのだが、次の瞬間にはさあっと自分の頭から血の気が引いた音を聞いた。
　王者の紋章は宿主の強さによって効果が変わる。つまり……。
　それでモンスターがいっさい出ないって……!?
　ぱっと振り返ってみればラズロは青い目を前方に向けている。カーンを見ているわけではないことがすぐわかったのは、その顔がやや斜めに向いていたからだ。
　ラズロは頭にやっていた手をゆっくりと前に出し、人差指を立てた。「城」
　はい？
　ラズロの視線の先、その景色の中に確かに黒っぽい石造りの大きな建物が見えた。
　カーンは灌木をかき分けて崖の上に立ち、そこから見渡せる地形をざっと観察した。大きな河が右手に横たわり、こまかな細流があちこちで交差してその川に流れこんでいる。草原はそのあいだに緩やかな起伏を作り、左手には遥か遠く立ちふさがるように高い山々が連なって世界の壁を形成していた。
「ここは赤月の南西部ですね」
　赤月帝国は広大なトラン湖を中心として東西南北にほぼ均等に広がる領土を持つ。だが、近年の戦乱や飢饉などの問題もあり、その支配力は弱まっていた。軍事力にあかせて領土を広げすぎたとも言える。地方に行くほど末端の政府機能がろくに動かない状態だ。帝国の直轄領はトラン湖周辺と北方の首都のみで、ほかの地域は貴族や豪族の土地争いも激しく、県境も安定しないどころか村や集落ができたり消えたりとあてもなくさまよう状況。特に南端の旧クールーク領と呼ばれる地域の中には、帝国からほぼ独立した都市機能を持って盤石な自治体制を採っているものもあるのだ。
　もともと帝国のしっかりとした官僚制度がいまだに健在であるからこそ、余計に身分や税制の粗(あら)も蓄積され、貧富の差も激しいのだろう。現在では解放軍と称する改革派がトラン湖に陣取って、ただいま内乱真っ最中だ。
　ようするに、旅人が自由に、あるいは安全にこの領土を縦断することはできない状況というわけだった。
「ハルナから山地を西に進んできたから」とラズロがまた無機質な声で言った。
「……方向はわかっていたんですか？」
「星が見えなくなったわけじゃないから」ちらりと樹間から空を仰ぎ、ラズロは呟くように続ける。「きみ、ノースウィンドウのほうへ行くって言ってたし、トラン湖を迂回するつもりなのかと」
　それでなにも言わずに三日間、黙ってついてきたってわけですか。そうですか。
　確かに赤月のど真ん中を通るよりも湖を西に迂回するほうがいい。もちろんカーンも、そのつもりであった。だから戦乱に巻きこまれる可能性の大きい街道を避けていこうとしていたのだが……。
　いずれにしても、叛乱軍がいまどのくらいの勢力を持っているか、それが問題だ。帝都に攻め入ろうとするならトラン湖以南の地域は平定せねばならない。そして国土の西方を丸ごと叛乱軍に握られるほど帝国の勢力は衰えていないだろう。
　もしかしたら、どんぴしゃりで激戦区に入りこんでしまったかもしれない。そんな気がする。ここ数日の自分の運の悪さを考えると余計にだ。
「で、あの城はなに」
　少年の指は近くの草原、その真ん中に聳える建物に向けられていた。
　カーンの記憶にある限り、このあたりに城はないはずだった。草原の遊牧民ならあちこちで見かけても不思議はないが、ああした石造りの城邑を構える民族など草原の中にはいない。この地域ではせいぜい狩猟を主とする戦士の村、そして夜の紋章を守って静かに存在する寺が山地のほうにあるのみのはずだった。
　しかもこの遠目から見ても幅の広い、どっしりとした構え。両側に突き出た塔と繊細にも見える形の屋根。どちらかといえば中原の古き城という趣きだ。
　赤月帝国は基本的に質実剛健、形式ではなく実力に重きをおいた尚武の国だった。まして内乱中の現在、古きものに叙情をこめて保存するような余裕もない。
　戦乱に乗じて貴族の誰かが領土を主張して建てたのか、あるいは帝国軍、解放軍のどちらかが急遽、橋頭保に建てたのかもしれない。いずれにしても、ここで考えこんでいても意味のないことだ。
「とりあえず行ってみましょうか。もし屋根つきの場所で休めるのなら、それに越したことはないですし」
　ラズロはこくんと頷いた。