番外編：小さな出会い

　ドミンゲスは伝書用に特別訓練されたナセル鳥だ。
　本日もちょっと間抜けな調査員に任務の通達といろいろな物資を届けた帰り。
　羽を広げて風の上に乗り、ドミンゲスは気楽に北への帰路に就いていた。
　天気は快晴、天敵の鷲やコンドルもいない。これだけ高く飛んでいれば、イタチやオオカミも涎垂らしながら羨ましげに見あげることしかできないだろう。だいたい俺さまは、きちんとクリスタルバレーで英才教育受けてきたナセルなんだ。あんな野生動物たちにあっさり食われるはずもないのさ。
　そう、俺さまはナセルでも賢いほうだ。人間の言葉を覚えてきちんと正確に命令の伝達ができるし、飼い主へのおべっかだって忘れない。
　たまにこうして大陸を往復させられては、無駄に金ばかり使う阿呆な調査員の手下に見られてしまうけど、しょうがねえ、俺さまは結局、ナセルだしな。せいぜい主人どもがしっかり稼いで、俺さまに上等な餌を用意してくれるなら文句はないさ。
　まあ、あのナッシュとかいう馬鹿に、真の紋章なんてでかい情報(やま)を当てられるはずもないんだけどよ。あの馬鹿専属で育てられた、この俺さまの運が悪かったってことだろう。
　人生（？）への諦めのよさは、やはりドミンゲスも鳥だということだ。理不尽さに憤りはしても、しばらく空を飛んでいれば忘れられる。
　ゆうるりと風に乗っているうち、ちょっと高度が落ちてきたなと思ったので、ドミンゲスは大きく羽ばたいて上昇気流を探した。ハルモニアの国境まではまだ山をふたつほど越えなくてはならない。そのむこうのカレリア近くの谷間はドミンゲスのお気に入りだった。いつでも風が断崖のあいだを駆け抜けているところで、その流れに乗れば自力で飛ぶよりもずっと速くあの峻厳な谷間(たにあい)を飛び抜けていけるのだ。
　ドミンゲスは羽ばたきながら青い空を見つめた。
　まだ夕方までは時間があるか。暗くなったらあの先の森の中に行って、いけすかないフクロウ野郎のテリトリーにこっそりお邪魔するかな。
　陽が沈んだら、鳥目のドミンゲスには方向を見失う可能性もある。空が赤くなるまでにこの止まり木もない草原の丘を越えてしまおうと、彼はまた大きく羽ばたいた。
　と、風の音に紛れて妙な音が聞こえてきた。空気を微妙に震わせる笛の音。
　人間には聞こえないと言われるその笛の音は、大抵の場合、鷹狩りだのなんだので使われる道具だった。このあたりの草原で鹿狩りでもしている金持ち連中がいるのかもしれない。
　だが、ドミンゲスには関係なかった。ドミンゲスはそんな笛で操られるような鳥ではないのだ。ナセルは伝書鳥としてはほかのどんな種類の鳥よりも抜きん出た才能を持っている。鳩をはじめ、伝書用に使われる鳥は数多くあるが、そのどれもが単純に帰巣本能を利用した伝書手段でしかない。つまり、出先から本拠地への一方通行にしか使えないのだ。
　ナセルはそんなことはなかった。飼い主と認めた人間を探して自由自在に空を駆け、そしてしっかりと仕事をするのだ。笛で訓練されたやつらには同情するけど、ナセルにはナセルの能力ってものがあるのさ。
　ドミンゲスはちょっとした優越感を抱えながら、ちょうどよく吹き抜けた風に翼を置いた。
　と――
「!?」
　いきなり翼の片方が凍りついたように動かなくなり、視界の中でぐるりと空がまわった。天地がひっくり返り、じたばたともがいているうちにも、ドミンゲスはどんどん地上へと引きずり落とされてしまう。
　落ちながら、ドミンゲスは自分の身体に短い縄が絡みついているのを認めた。その縄の両端には小さな石が結びつけられていて、その重量はしっかりとドミンゲスを地上へと引きずりおろしてくれる。
　っていうか、なんて原始的な鳥の捕獲方法！　そして俺さまが、そんなものにとっ捕まるなんて！
　そうして屈辱を噛みしめながら、それでも落下していく自身の体を止めることもできず、重力に引っ張られるがままになっていたドミンゲスは、やがて、ぽむっ、と誰か人間の手で受け止められたのである。
　いちおう太い鉤爪のある脚を無意味に蹴り出しながらも、ドミンゲスは首を捻ってその人間を見あげた。
　青い目。それだけはわかった。そもそも鳥は、そんなに色の見分けはつかない。
　そしてその青い目の人間はドミンゲスの足をむんずと掴み、いちおう絡まった縄は取ったものの逆さまに吊るして左右に振ってくれるものだ。
　ちくしょう、そんなにぐるぐる振りまわすな。いくら訓練を積んでるからって方向がわからなくなっちまうだろうが！
　しばらくすると、ぐったりとしたドミンゲスの様子に気づいたか、その人間は揺するのをやめて、しかし、逆さまにぶらさげたまま目線まで持ちあげたようだった。
　そして、「文書は持ってない」とぶっきらぼうなひとこと。
　それに応えて、その彼よりもちょっと高めの声が横から漂ってきた。「けど、明らかに伝書用に訓練されてるよね。変なナセル」
　ドミンゲスはふらふらな頭をどうにかこらえながら、懸命に目玉をまわして周囲を見やった。
　彼を挟んでふたりの人間がいる。さっきの青い目のやつと黒髪。黒いほうが背が高い。
　ドミンゲスをぶら下げているのは相変わらず青い目のほうだ。
　彼はまたひと揺すりしてから、「……群島のじゃないんじゃないか？」
　群島？
　ドミンゲスは必死で考えをめぐらした。だが、所詮は鳥。群島やらいう名前がなにを指しているのか、どうもよくわからなかった。
「いまさら鳥違いなんて言わないでよ」と黒髪のやつが溜息とともに呟く。「こっちの鳥笛を無視するからって、頭来て石縄投げて捕獲したのはラズロだよ」
「遠目で見分けられるわけもない」
「そうだけどさ」黒髪はまた溜息をついてから軽く首を傾げた。「で、どうするの、それ？」
「………」
　青い目のやつはしばらく考えてから、片手で自分のマントの中を探った。そうしながら黒髪へと視線を向ける。「火炎の札とかなかったっけ？」
「焼き鳥にする気？」
「お腹すいてたし」
「冗談じゃねええええ！」
　思わずドミンゲスは叫び、思いきり脚と羽をてんでんばらばらに振りまわした。
　どうやら青い目のやつはそれでびっくりしたらしく、掴んでいた手の力がわずかに緩む。ドミンゲスは鉤爪で思いきりその手をひっかいてやり、さらに緩んだところを嘴で突つきまわった。
　さすがに短い悲鳴をあげ、青い目のやつはドミンゲスを放り出したものだ。
　地面に落ちる前にドミンゲスは自由になった羽を忙しく動かし、草地の上ででんぐり返るようにして姿勢を直した。そしてそのままとんとんと脚で地面を蹴り、人間たちの手の届かない高さまで一気に飛びあがる。
　ドミンゲスは大きく息を吐きながら、こちらを唖然と見あげているふたりの人間を見おろしてやった。
「このどぐされ外道どもが、こちとらクリスタルバレー生まれの、ちゃきちゃきのハルモニアンでい、てめえらなんかに簡単に食われてたまるか！　今度見かけたら、その鉢巻ぶんどってやるからな、憶えてろ！」
　空中で羽ばたきながら悪態をつくだけついて、ドミンゲスはあとも見ずよろよろと北へと逃げた。
　ちくしょう、俺さまはこの世界をなめてたぜ。ナセルを食おうなんて考えを起こす人間が存在していたとはな。警戒しなきゃならないのは鷲だけじゃなかったってことだ。くそ……。
　だいたい、いきなり石投げつけて捕まえたあげく、思う存分振りまわしやがって。おまえは利口だ、特別だと、甘やかされて育ってきた俺さまが……悔しいいいいい！
　まじめに憶えてろ、鳥頭だからって、俺さまがおまえらを忘れると思うなよ！

＊＊＊

　北の空へと消えていった茶色い鳥を見送っていると、ラズロがぼんやりと口をひらいた。
「ナセルが喋った……」
「器用だねえ」とキリルも頷いてみせる。「クリスタルバレー生まれって言った？」
　まだ空を見あげながら、ラズロがまたぼんやり呟く。「ハルモニア、ちゃんと研究してるんだな」
　キリルは目をおろし、鉢巻頭を振り返った。「ああいう突然変異的なナセルを意図的に生み出しちゃったってこと？」
「だろうね」と頷いてから、ラズロもまた目をおろした。
　そうしてなにやら考えこんでいるらしい。
　キリルは怪訝に眉を寄せた。「ラズロ？」
　彼はきらきらと青い目を輝かせて顔をあげた。まあ、表情はないけど。「群島のナセルも喋ってくれないかな」
　この数秒間で、なにを考えてそんな期待を抱くようになったのかな。相変わらず、その鉢巻頭の中でどんなイメージが組体操しているのやら。「……便利だから？」
「そのほうが面白いじゃないか」
「だと思ったよ」ラズロも所詮、群島人てことだ。キリルは諦めの吐息をついてから、それでもわずかな懸念を口にした。「けど、群島の機密じゃないの、ナセル鳥。どうしてハルモニアが――」
「ああ、それは」と反射的に声を出してから、ラズロは即座に口を噤んだ。「あ、いや……なんでも」
　この反応は……なにかやったね？
　キリルは鉢巻頭を睨みつけてやった。「なに？」
　目を逸らしながら、ラズロはしぶしぶと続ける。「昔……番いをササライにあげたことがあるなと」
　キリルはふた呼吸ほど間(ま)をおいた。「……ラズロ」
「いや、欲しいってねだるから……」ラズロは自分の腰あたりに手をあげてみせ、「あの子がこのくらいちっちゃい頃だったから、そこまで機密にこだわらなくてもいいかと」
「そこはこだわってよ、提督！」キリルはついに怒鳴りつけた。「だいたい、クリスタルバレーまで行って、なに子守りしてるの！」
「あ……うん」辟易とした様子で、ラズロはきびすを返した。
　それを追いかけるようにしてキリルも歩き出す。「ラズロ、きみね、深慮遠望ってスタイルして、そのじつ、なんにも考えてないってその性格、どうにかならない？　ねえ、ちょっと、聞いてるの？」
「とりあえず、いまはおばばさま捜さないと」
「それも、きみが見失うからでしょ」
「キリル君」とラズロは真剣な目で振り返ってきた。「ぼくひとりで、おばばさまをおとなしくさせておけると思ってるの」
「ひらきなおらないでよ」
　なおもぶつぶつと言いあいながら、ふたりはしばらく山麓の草原をうろついたのだった。