Lucky guy

１

　ハイランドとの国境をかすめて山脈沿いに行き、ここはデュナン南東部、ぽつぽつと山や丘の連なる穀倉地帯。
　夜の帳のなか、ひとつ峠を越えて下山しようとしていたとき、シエラが急に知りあいのところへ顔を見せに行きたいと言い出した。
　場所を訊けば一日ほど歩けば辿りつく距離だ。
　キリルは首を傾げた。「それほど寄り道というわけでもないですし、構いませんけど」
　だが、シエラはどこか思慮深げに眉を寄せたまま沈黙する。
　ラズロは首の後ろをこすって眠そうだった。「古い知りあい？」
「そうじゃ」
「古い知りあいっていうと……」キリルが言いかければ、シエラは、「詮索するでない」と不機嫌になる。
　ひとりで行きたいってことなのかな。
「とはいえ」ラズロがまた疲れたような溜息をついた。「おばばさまひとりにすると、あとが大変」
「やかましいわ」
　キリルはラズロのほうに身を寄せ、こっそりと囁いた。「そんなに方向音痴？」
「ネイ島で迷うくらいだよ」
「あのときのことは言うな！」シエラの拳がラズロのひたいに当たった。

＊＊＊

　ナッシュは必死で走っていた。
　そりゃそうだろう。後ろからゾンビの集団が追いかけてくるんだ。
　ゾンビといえば、どろっとした爛れた皮膚を滴らせながら、ぎょろついたまばたきのない目で新鮮な肉体が欲しいっつって恨みがましい呻き声をあげ、のろのろと迫ってくる連中だ。生気がなく、動きが鈍いモンスターとして有名だってのに。
　それなのに、なんだってこんなに足が速いんだ、こいつら？
　吼えるように一体が大きく跳びあがり、しかし、ナッシュには届かず地面にべちゃりと落ちた。その泥と化した屍の上を、さらにほかの灰色の足が踏みつけてくる。
　周囲は夜の闇。それでもまだ月の光があるだけましだろう。視界を遮る木々は青白く浮きあがり、下生えも灌木も黒々とうずくまっていた。
　晴れた夜空に気を許し、なるべく早くミューズへと行程を急いだのが失敗だった。なんの変哲もない田舎道、特に人が住んでいない土地でもない。麓には麦畑も広がっているし、もう少し行けばコボルトの集落もあるはずだった。この山を抜ければ、どこかの農家で納屋を借りて休むことができるかもしれないと安易に考えていたというのに。
　まさか、陽が落ちるとともにこんな化物たちが有象無象に出現しようとは。
「まったく、ついてないな」
　呟きながらナッシュは大きく顔をしかめ、ひとり苦笑を浮かべた。運の悪さはいまに始まったことじゃない。いつだって楽に任務をこなしてきたわけでもないし、こうして命懸けの徒競争をやらされる破目になるのも慣れたものだ。けど、やっぱりゾンビに抱きつかれるのは経験したくないよな。
　と、ナッシュはつんのめった。
　いくら埒もないことを考えていたとはいえ、この状況で足もとのものに気づかずにつまずくほど彼も間抜けではないはずだった。
　手近の木の幹にしがみつきながら完全に転倒するのはこらえ、足を縫いつけているものを見れば骨と皮だけの細い手だった。黒々とした地面から生えている。
「ちくしょう、たったひとりにしつこすぎるんじゃないか」
　咄嗟にコートの内ポケットから札を取り出し、その面に描かれている紋を指でこすりながら、ナッシュは足首を掴んでいる屍の腕をぶんぶんと振りまわした。
　そうしているあいだにもその腕の持ち主は土塊をなだれさせて起きあがり、生前は美人であったとしても、いまはこけた頬と剥き出しの歯列、異様に飛び出した眼球をナッシュに向けてくる。さらにその後ろには、先刻から追いかけていたゾンビ集団がざわざわと、てんでんばらばらに唸りながら迫ってきているのだ。
「くそっ！」ナッシュは三つほど数をかぞえ、札を放った。
　足を掴んでいたゾンビとすぐそばに迫っていた数体が、ぼっと一気に広がった炎に巻かれ、甲高い奇声を発してよろめく。
　炎が収まる前に、ナッシュはきびすを返した。目の隅でまた新たな土塊が動いたような気もする。
　きりがない。どこまで行けばこの死人だらけの山から抜けることができるのか、彼は少し不安になった。
　夜明けはまだ遠いのかとちらりと空を見あげれば、しかし、生い茂った黒い枝葉が月の光を細かく分断してしまっている。
　ナッシュは切れかかる息を整えながら走る足に力をこめた。
　とにかく、最悪でも夜通し走ればなんとかなる――体力が続くかどうかは自信ないけどな。
　彼は灌木を跳び越え、そのまま転がるようにして一本の太い木をまわりこんだ。
　そこは樹間がわずかに広がったちょっとした獣道だった。月の光が地面まで照らしている。
　そしてまず目に入ってきたものは三つの大小の影――
　人!?
　と考えるより先に眼前を銀光がよぎった。
　たぶん、それを避けられたのはナッシュの本能だっただろう。
　夜気を切り裂くほどの鋭い剣閃。
「ラズロ！」
　どこか非難のこもった誰かの叫びと間髪入れずに逆側から斬りあげてきた剣。それらがナッシュのコートをかすめたのは同時だった。
　そして黒い剣は左右交互に息つくまもなく襲ってくる。ナッシュはよろめき、倒れる前に身体を返して地を蹴り、その剣から身を遠ざけようと無意識に動いた。
　と、肩に樹木の幹が当たる。
　しまったと思ったときには、彼の首は交差した二本の剣のあいだにあった。
　かすかな月の光を反射して黒い刃がきらめく。
　そのむこうに青い双眸があった。
　十七、八の少年。どちらかといえば少女のような顔立ちをしているものの、その両眼の光の強さがすべての印象に取って代わっている。
　誰だとは口にできなかった。息がせりあがってきて、それを抑えようと筋肉が収縮し、緊張でこくりと喉が鳴る。こいつ……さっきの呼びかけがなければ本当に俺を殺していただろう。
　ナッシュは短くこまめに呼吸を繰り返しながらそろそろと両手をあげた。
　青い目の少年は動かない。だが、その背後からふたつの大小の影が近づいてきた。銀髪の少女と黒髪の青年。少女のほうはふわりとした足取りで、どこか幻のようにも見える儚い白さ。青年のほうは臙脂色のコートを闇に溶けさせているものの、しっかりとした存在感を持っている。その片手に大きめの背嚢をぶら下げ、もういっぽうには両刃の武器を持っていた。
　そして少年は灰色のマントに身を包み、その下は黒いシャツと半ズボンだ。初秋とはいえ、この夜中にずいぶんと寒そうではある。だが、剥き出しの腕が支える二本の剣はぴくりとも微動だにしない。赤い鉢巻の下にある青いふたつの目も、鋭いままの強さを保ちつづけていた。
「ラズロ、殺してない？」平板な声で訊ねながら青年が少年の横に並んだ。
「こんな夜更けに猪のように突進してくるとは、何者じゃ」と少女。
　いや、猪って……。
　少年がわずかに目を細めた。だが、剣はまだ外してくれそうにない。「ハルモニア人？」
　よくわかったな。まあ、俺は金髪碧眼に白い肌と、北方人の特徴をずいぶん持ってはいるが……。「いや、そんなことより――」
「ちょっとごめんね」と背の高い青年のほうがひょいとナッシュの外套を掴んで、そのまま広げるように引っ張ってくれる。
「おいっ！」思わず叫んでから、しかし、顎に冷たい鋼の感触をおぼえ、ナッシュは引きつって口を閉じた。
　頼む、いいかげん剣を引っこめてくれよ。でなけりゃおまえさん、もうちょっと身じろぎするとか、笑うとか、なんか人間らしい反応してくれ！
　そのかんに、黒髪の青年はてきぱきとナッシュの身体検査をしていた。「へえ、このマント、絶縁の呪を織りこんでるんだ。内側にナイフ、札、火薬――ってことは、吠え猛る声の組合出身かな。それと……針？　暗器ばっかりだねえ。しかもワイヤーなんて持ってるよ。あと、背中に剣がふた振り」
「物騒なやつだね」青い目から低い呟きが洩れてきた。
「どっちが」思わずナッシュも口をひらく。「ってか、そんなことしてる暇は――」
「もしかして、紋章狩り部隊？」黒髪の青年が身を起こし、ナッシュの外套をもとのように整えた。
「いや、ちが……」
　少女が横目で青い目の少年を見やった。「おんし、円になにかしたのか」
「ぼくはしばらく海から出てませんよ」とナッシュに視線を据えたまま少年。
「じゃろうな」軽く頬を撫でるようにして少女が首を傾げる。
　どうでもいいが、のんびりと話をしている場合じゃないだろう。「あの……」
「おばばさまこそ」と相変わらずナッシュを睨みつけているくせに関係のないことを呟く少年だ。
　少女もまったく素知らぬふうだった。「紋章を持っていないわらわに、あやつがなにをしてくると？」
　ナッシュは木に背中を張りつけたままの姿勢で大きく息を吸い叫んだ。「お願いだから！」
「なんじゃ」とうるさそうに顔をしかめながら少女が睨みつけてくる。
「俺の背後も注意してくれ！」
　その言葉に真っ先に反応を示してくれたのは、いまだにナッシュを剣で留めつけていた少年だった。わずかに視線を動かし、暗い茂みのほうを窺ったらしい。「……なにかいた？」
「ゾンビが何体か、ちらっと見えたね」黒髪の青年が頷く。
「もう、とっくに逃げたぞえ」と腕組みをして少女。
「へ？」
　確かに、あれだけ有象無象に群れていたはずの背後からの集団の気配は消えかけている。振り返って確認してみたかったが、そういうわけにもいかない状況だ。ナッシュはわずかに混乱した。
　黒髪の青年がなにかを思い出したように少年を振り返る。「きみ、もしかしてまた王者の紋章宿してる？」
「このあいだ一か月、オベル遺跡に潜って掘ってきた」
「艦(ふね)を空(あ)けてたってそれか……それで甲板掃除してたの」
　……なんなんだ、こいつら？
「罰の」と少女がナッシュを見ながら呟いた。「そろそろ自由にしてやらんか。いいかげん、首を切ってしまうぞ」
「ああ」気がつかなくてごめんといった態度で少年は淡々と剣を引いた。くるりと両手で同時に回転して腰の鞘に収める。
　ナッシュは無意識に手をやり、どこにも傷がないことを確かめた。幹に背を預けたまま緊張をほぐして肩を落とす。「ふう……」
「それで、何者？」黒髪の青年が苦笑とともに横に立った。
　ナッシュはまだしつこく首をさすりながら、「……ナッシュ、ハルモニア南部辺境警備隊の、ただの傭兵だよ」
「あそこの通常部隊は単独行動はしないと聞いていますが？」とすぐさま青年。
　世間に疎いわけじゃなさそうだな。それどころか、ずいぶんと詳しい。
「……特派の潜入員ってところでね」
「ああ、真の紋章の情報を集めてまわってるっていう？」青年は首を傾げた。
「マメだね」無表情に少年が呟く。
　それを聞いて、青年がじろりと彼を睨んだ。「他人事しないように、ラズロ」
「なぜ」
「そりゃ……」と言いかけ、青年は大きく溜息をついた。「まあ、きみに手を出してくるとは思わないけど」
　ナッシュは彼らを見比べた。「きみたちは……まさか真の紋章を？」
　最後に銀髪の少女に目をやれば、彼女はふんと鼻を鳴らすかのように顔をあげた。「わらわは月のシエラじゃ」
「……！」
　その名に連なる情報が頭の中で錯綜した瞬間、ナッシュは表情を取り繕うこともできずに目を見ひらいた。
　月のシエラ。真の月の紋章にまつわる数々の伝承、伝説。そしてそれは吸血鬼の始祖である少女が宿しているという。
　驚きのままにあらためて彼女を見れば、青い月の光を浴びて銀の髪がさらりとかすかになびいた。
　あどけない面立ちのその少女は不意に唇の端をあげる。「ほう、さすがに知っとるという顔じゃな。ハルモニアの情報員であれば当然か」
　きっと、ここでごまかそうとすれば、この少女が豹変するか、再び少年の黒い剣が動くか、どちらかだろう。
　ナッシュは何度か呼吸を繰り返してから、「……ご高名はかねがね」と、どうにか口にした。
「継承者ではいちばんの年寄りだからね」少年がむっつりと呟く。
「罰の」と横目で睨みつける少女。
「事実だと思うけど」
　あたりをいちおう警戒しているのか、よそを向いていた鉢巻頭へ後ろから少女の拳が突きこまれていた。だが、双方ともそれ以上暴れるそぶりはない。
　いずれにしても少女の正体はわかった。御歳八百になろうかという有名な真の紋章の継承者だ。だが、このふたりは？　この夜のなか、吸血鬼の始祖と当然のように並んで立って……。
　ナッシュは殴られた鉢巻頭をさすっている少年を見やり、それを微笑ましく見守っているかのような青年に目を向けた。
　そうは見えないが、もしかすると……？
「そっちのはたしか、ラズロっていったよな」ナッシュはかすれる声をなんとか絞り出した。「あんたは？」
　黒髪の青年は振り返り、軽く首を傾げる。「キリルっていいます」
「で、ふたりはその……」
「？」
　口ごもっているあいだに、少女と少年もこちらを振り返ってきた。
「おんし」と月のシエラが低く囁く。「まさか、わらわがこのふたりを下僕にでもしていると思うたのか」
　あれ？　違うのか？
　嫌悪感のこもった吸血鬼の赤い目がすっと細まる。
「あう」ナッシュは慌てて彼女を見、そして少年と青年へ忙しく視線をめぐらせた。「いや、その……」
「ああ」とキリルが苦笑する。「ぼくらは群島諸国で働いているただの公務員ですよ。ご心配なさらず」
　この場にそぐわない名詞を耳にしたような気がして、ナッシュはまばたいた。「群島……？」
「公務員じゃと？」とシエラのほうも驚いたようにふたりを見比べる。「似合わんことを」
「いちおう洋上会議から年棒もらってるし、ね？」とキリルが同意を求めるように言えば、こくんとラズロという少年も頷く。「おばばさまにつきあうほうが、ただ働きになる」
「だからといって、給料を払う義理はわらわにはないぞ」
「うん、いいんだ」
　よくわからないが……。
　とにかく、ゾンビの集団はいなくなった。
　ラッキーと言っていいんだろう。たぶん。