１
「狼かな」
「モンスター化したやつだろうけれど」
キリルとラズロは小さな草原の真ん中、黒焦げになったそれを挟んで立ち、見おろしていた。
確かにそれは、もともとは狼だっただろう。四本の脚はまだちゃんと形が残っているし、ひらいた顎には無事だった牙と歯が鋭く覗いている。
「あたりには、あまり焦げたところはないのに」キリルは念のために周囲を見まわした。青い草原はそよ風にかすかに波打っていて、のんびりとした平和さだ。
「じゃあ、雷魔法でやられたんだろうね」ラズロが頷いた。
シエラさまの雷か。なかなか強烈なんだよね、あの人の魔法は。
キリルはまた周辺を見まわし、銀髪の少女が見えないかと、ほとんど諦めながら捜してみた。
「カーンさんとは、サウスウィンドウで落ちあうことになってるんだけど」と彼はぼんやりと呟いた。「ここまで来たら、おば――シエラさまには直接、ノースウィンドウに行ってもらうほうがいいかな」
ラズロが黒焦げの狼のそばにしゃがみこみながら、「なぜノースウィンドウで落ちあうことにしなかったの」
「だって無人だから、あそこ」
「無人？」
「だいぶ前にネクロードの全滅させられたんだって。死人(しびと)の思念がいまでも取り巻いてるらしいよ」
ラズロは俯き、片手で狼の顎を揺するようにしながら溜息をついた。「……最近、そういう話ばかりだな」
「きみはほとんど縁のない世界だったからね」キリルは苦笑した。「でも、ノースウィンドウがもうすぐそこだから」と彼は北寄りの方向へと指を立てた。
「………」
無表情なのはともかく反応がないことに訝しく思って、キリルは鉢巻頭を見おろした。「なに」
「いや……ちょっと急ぎすぎじゃないかと思って」
「きみはとっとと海に帰りたいんじゃないの？」
「ぼくのことじゃないよ」ラズロは相変わらず狼の顎を揺すっている。
さすがにキリルは眉を寄せた。「……さっきから、なにしてるの」
「この牙を放置するのはもったいないと思って。ギルドに持っていったら売れるんじゃないか」
「もう、ここまで来て仕留めたモンスターは骨の髄まで再利用の群島精神はいらないから」
あそこの人は本当に逞しいけどさ。竜を仕留めればその肉は高値で取り引き、きらきらと光沢のある骨や牙は釣りの道具として重宝するし、カニ鍋にカエル料理はもちろん、カズラーの蔦は頑丈なロープだと喜び、種も花も薬になる。クラゲ男の心臓は瓶に詰めて角灯代わりに吊るし――群島の生活は、モンスターとそのモンスターと戦う人々によって成り立ってるといっても過言じゃない。おかげでクエストギルドなんてものが、いまだに繁盛するわけだよ。
「まあいいか」ラズロは立ちあがった。「このあたりには、さすがにギルドはなさそうだし」
そうは言いながらも、まだ未練げな目を向けているラズロだ。「……なんで魔法使うんだろうな」
「え？」
「おばばさま」ラズロはモンスターの死体を指し示した。「このくらいの獣なら、片手で首の骨折るぐらいはできるはずなのに」
は？
キリルは黒焦げの狼とラズロと、しばらく目線を往復させた。
そしてやっとその意味を把握する。「……シエラさまって、じつは力持ち？」
ラズロはこくんと頷いた。「ぼくを押さえこんで血を吸うぐらいはある」
「ああ、そういえば吸血鬼だっけ」
優雅な美を好み、細身で儚げな容姿を保ってはいるが、大抵の吸血鬼はその見た目にそぐわぬ体力と腕力を持つ。シエラさまも例外ではないんだろうけれど。
「最初はびっくりしたからね。まさか押し倒されるとは思わなくて」
「きみが押し倒されたの？」逆じゃなくて？ っていうか、逆なら逆で、それはまた別の意味でびっくり仰天だけれど。
またこくんと頷くラズロ。「海で溺れてたから本当に死ぬほど飢えてたんだろうけれど、今度はぼくのほうが危うく死にかけてね」
「ちょっと！」
「おばばさま、紋章に気づいてぎりぎりで止めてくれたらしい」大丈夫、とラズロは軽く手をあげた。「あのとき、タルがすごい剣幕で怒ってくれたんだ。いまさらの説教は勘弁して」
「えっ、タルって」キリルは脳裏に陽気な漁師の青年を思い浮かべた。「まだ彼が生きてた頃？ そんなに古い知りあいだったの、おばば――シエラさまと？」
「古いっていっても、百年とちょっとぐらい？ 会ったのはそれきりだし」
「それなのに、きみの顔見てあの吼えつきよう……。いったいなにしたの」
「なにも。ぼくはちゃんとおばばさまを海難者として保護して、もといた大陸まで送ってあげた」ラズロはどこかむきになったように言いつのった。「やたらとオベルやらネイ島やら、あちこち遠まわりしたのは、どこかに寄港するたびに、おばばさまが違う船に乗って迷子になるからだよ。ぼくのせいじゃない」
「でも、違う船に乗ったからって〈双牙〉が追いつけないわけじゃなかっただろう」
ラズロは肩を竦めた。「おばばさま、接舷移乗ができないんだよ。ボートに乗せるのもひと苦労だから、乗り換えるためには艦(ふね)を着港させないとならなかったんだ。だからいちいち港のある島に上陸、そのたびに迷子」
うわ……いちおう苦労したんだ。キリルは目を逸らした。ラズロの艦(ふね)は軍艦としては比較的小さいほうだとはいえ、どんな船であろうと、とにかく入港と出港がいちばん手間がかかる。荷物がなくて、ひとりふたりを島に下ろすぐらいなら、ボートを出して往復するほうが遥かに楽だというのに。
まあ、確かに、流水を苦手とする吸血鬼の始祖さまに、揺れる波の上、一枚の板だけで船と船のあいだを渡ってこいなんて言えるわけはないけどさ。ましてやボートに乗せるなんて。
「勝手に民間船に乗って帰ってくれるなら放っておいてもよかったんだけど、どこに行くかわからないうえ、気がついたら磯の上でわんわん泣いてるし」ラズロはぐるりとあたりを見まわしながら軽く吐息をついた。「それに、真の紋章のことを隠しもしないものだから」
「ああ、群島じゃそれは……」
「うん、本当に呪われた生きもの扱いされちゃさすがに……罰のことも憶えてる人がまだ大勢いる頃だったから冷や汗ものだったよ」
まあ、あの調子で、罰の、罰のと大声で呼ばわるだろうからね。
「とにかく、手がかりができたから辿ってみるか」ラズロが西のほうへと歩き出した。
キリルは慌ててあとを追う。「なにを辿るって？」
ラズロは黙って前方を指さした。風になびく草のあいだにもうひとつ、黒いなにかがうずくまっている。
「あれ……もう一匹、犠牲者がいたんだ？」
「点々と続いてるね」
そのとおりで、そのむこうにも、そしてさらにもうひとつと、吸血鬼の始祖さまがその怒りのままに放ったらしい魔法の痕跡が残されていた。そしてそれは小さな岩場、洞窟があるらしい場所へと続いている。
キリルは空を見あげ、方角を確かめた。「たぶん、あそこは風の洞窟って呼ばれてる場所だよ。ノースウィンドウのすぐ南まで来てるってことだ」
「そう」ラズロは足を速め、どんどん草原を渡っていった。
どうしたのかな。気乗りがしなさそうなんだけど。
キリルはそれに合わせて小走りになりながらラズロに囁いた。「ノースウィンドウに行きたくない理由とかあるの？」
「そうじゃないよ」ラズロはちらりと青い目を向けてき、やや眉を寄せるようにした。「カーンが気づかないのは無理もないけど……きみも、もうちょっとおばばさまの事情を酌んでやれない？」
「事情……」
「四百年、追いかけてきた相手だよ？」
キリルはまばたき、またすたすたと先を行く琥珀頭を見つめた。
そうか……突然、見知らぬぼくみたいな若造がやってきて、ネクロード斃しますよ、手伝ってくださいなんて、シエラさまにとってはじつは青天の霹靂だっただろう。それでもネクロードと聞いて動かないわけにはいかない。だが、長いこと宿敵として追いかけ、逃げられ、あるいは見失い……そのあいだに諦めや立ちなおりを繰り返してきただろうに。
急ぎすぎ、か。
「ごめん」キリルは溜息を抑えた。「ぼくにとっては他人事のようなもので、シエラさまを迎えに行ったのも頼まれたからだったから……気がつかなかったよ」
「確かに、ぼくたちは部外者だしね」
「おばばさまの問題？」
ラズロは首を振った。「そういうことじゃなくて……」そして少しためらいがちに呟く。「自分の紋章と離れて暮らすというのは、どういうものなんだろうって思うよ」
キリルは友人の横顔を見やった。「それできみ、シエラさまには甘いの」
「そう見える？」
「見えるよ。ずいぶん構い倒してる」
ラズロはぽりぽりと頭をかいた。「まあ、ぼくは昔から年上の女性には弱いしね」
「自覚はあるんだ？」
「エレノアさんにも、キカさんにも頭があがらないことばかりだったし……セネカさんも怖かったよ？」
「ひどいな」キリルは苦笑した。
そうして言葉を交わしながら歩いていけば、やがて地面の草がまばらになって岩地が覗きはじめた。その硬い石の上に足を置き、ラズロはいったん立ち止まる。
彼らの前には薄暗い入口を持つ洞窟。そしてごつごつとした小さな岩山があった。
洞窟からは間断なく風が吐き出され、岩々の隙間を悲しげに泣きながら空気がすり抜けていく。なんの変哲もなさそうな地形の中だというのに、この風がどこから来るのかキリルには不思議に思えた。
「水の匂いがするね」ラズロがまるで風を見るかのように目を細める。「湖が近くだって言った？」
「うん」キリルは北のほうを示した。「デュナン湖。トランよりも大きな湖だよ」
「じゃあ、季節なのかどうか知らないけれど、たぶんその湖からの風が河口に集まってこっちに流れてきてるんだろう。この裏はすぐ川じゃないかな」
なるほど、よく風を読む。「でも、シエラさまがここに入る気になるかな」
「たぶん入っていったと思う」
「どうして断言できるの」
「迷子になりやすい人の特徴。とりあえず行く、とりあえず乗る、とりあえず入ってみる」
キリルは吹き出し、思わず身を折って笑った。
「船を間違える人や航路を外れる船長は大抵、そう言うんだ。とりあえず、やってみただけだって」
キリルは腹をさすりながら頷いた。「じゃあ、ぼくらもとりあえず行こうか」