1
都市同盟ミューズ市、燕北方面軍傭兵隊。それがフリックの所属する部隊だった。
その隊長は、いま横で剣を振っているビクトールである。
背丈もフリックほどはあり、両腕も両足も筋肉質で、陽に焼けて逞しいがっしりとした体躯。ついた綽名は熊。
戦いかたも森の王者そのもので、いまも豪快に剣を振りまわしていた。洗練された剣術使いというわけではないが、不思議にも隙のない戦士だ。
派手にすっ飛んでいく狼の一匹を横目にしながら、フリックはその熊の肩に合わせるようにして立ち、周囲をいまだにかこんでいる狼たちを睨みつけた。
「なんだよ、このモンスターども」
「まさに、きりがねえな……あいつら、よく通っていったもんだ」ビクトールもさすがに疲れたような吐息をついた。「おい、フリック、雷は」
「種切れだよ、とっくに」フリックは右手で剣の柄(つか)を握りしめた。魔力も使いきったか……雷魔法を分散して浴びせれば、この場は簡単に突破できるんだろうが。「楽すること考えないで、ちっとは数減らせ」
こうなったら、地道に一体ずつ片づけていくしかない。
この燕北の峠、常に霧に包まれているこの山道には不気味な妖魔が棲んでいるともっぱらの噂だった。大抵の場合、そこに大物のモンスター――いま目の前にいる連中を下僕として、洞窟や山頂にでも巣食っているなにかがいるものだ。しかし、そのボスは現われない。その代わり、狂ったようにてんでんばらばらに襲ってくる狼たちの数ときたら……もしかしたら、先にこの峠を抜けていった子どもたちがそのボスを斃したか？ そのせいで、こいつらの箍が外れたという可能性もあるが……まさかな。
飛びかかってきた一体を横薙ぎに払えば、ビクトールが背後でもう一匹を打ち飛ばす。そして再び横に列なって彼らの前を塞ぐ群れ。
「走るか」ビクトールが呟いた。
一点を突破してひたすら走る。あまりやりたくはないことだ。ことに狼が相手では、たちまち追いすがってくるだろう。
しかし、こうまできりがないと、それしかなさそうではある。
と、そのとき、彼らの周囲で青白い光が躍った。空中で閃いた電光がまっすぐ地面へと走り、フリックたちの前に並んでいた数匹の狼を直撃したのだ。
「えっ……雷!?」
ぎゃんぎゃんと悲鳴のような音を立て、数匹が撥ね飛ばされて地面に転がり、その仲間の焦げついた死体を跳び越え、怒り狂ったモンスターたちが激しく吠え出す。
魔法の余韻とその騒ぎのせいか、周囲の霧が一瞬薄くなったような気さえした。
「フリック？」ビクトールが横目でちらりと見やってくる。
「俺じゃねえよ」フリックは慌ててあたりを見まわし、次に背後を振り返った。
目の前に、にこやかに微笑む黒髪の青年。「こんにちは」
「おまえっ――!?」
驚いて叫びかけたフリックの横を、もうひとつ黒い影がすり抜けていった。
赤い鉢巻の残像を目で追えば、ビクトールの前に双剣を構え、琥珀頭の少年が大きく前に足を踏み出すところだ。
少年が剣を握った右手を頭上にあげると、薄くなった霧がさらに、ざっと大きく動いた。
そして―― 一閃。
斜めに振りきれば、空気が金属的な共鳴を起こす。
まるで空間が凍りついたような静寂のあと、二重、三重にも取りかこんでいた狼たちがいっせいにひっくり返った。ごろごろと転がっていくものもあれば、斜めに斬られてそのまま横たわるものもある。
技紋章？ なんだこれ？
あたりが静まったのを確認するように軽く首を振ってから、鉢巻をまいた琥珀頭が振り返る。同時にくるりと両手の剣をまわして腰の鞘に収めた。「やあ」
「おまえ――」フリックは思わず剣を持ったほうの手で彼を指し示しそうになり、慌てて腰の鞘を探って剣を収める。そうしながら忙しく、前後に立った見覚えのあるふたりを見比べた。「な、なんで――」
「誰かと思ったら」と、ビクトールがやはり剣を収めながら暢気な声を出した。「じじいの友達の鉢巻じゃねえか」
「いや、だから――」フリックは眩暈を起こしはじめた頭を押さえた。
忘れもしない、一生の仕事と覚悟を決めた赤月の解放戦争、いまでは門の紋章戦争として歴史となりつつある数年前の戦い。
不慣れな水上戦のために、軍師マッシュが念のための頼みとした群島諸国の船舶操船技術。そいつを提供してくれたのが、いまビクトールが言ったこの鉢巻だ。記憶をなくして転がりこんできたこいつ――ラズロの、命を助けてもらった礼ということだったが……いちおう、こいつはれっきとした提督さまだぞ。
それを、鉢巻――鉢巻って……俺、ビクトールにも説明したよな？
「ちゃんと憶えててくれたんだ」と当のラズロも、どこかのほほんと無表情に頷くものだ。
「そりゃな、キンバリーを飲み比べで沈めたやつを忘れるかっての」
せめて別のことで憶えていてくれよ。
フリックはひたいを押さえたまま足もとの地面に向かって呟いた。「なんでこんなところで出てくるんだ」
「夜のじいさまに飛ばされて」ラズロは放物線を描くように指を動かしてから、ビクトールへと青い目を向けた。「どうして風の洞窟に放ったらかしにしてるの」
「いや、それは……」ビクトールはがりがりと頭をかいた。「まあ、いろいろと事情がな」
「いくら口うるさくても邪険にしちゃいけないな。お年寄りは大切にしないと」
「おまえが言うのか」フリックは思わず琥珀頭を見おろした。おまえも地元じゃ、じいさまと呼ばれてるひとりだろう。
うっせえと、ビクトールがいきなり頭をかきまわした。「だから、いくら真の紋章だからって、尊大でわがままで、しょっちゅう雷を落としてやかましく喚く年寄りと、一生つきあってられるかっての！ 夜だか月だか星だか、いくら化身だからって誰があんな厄介なもんを継承するか、ちくしょうめ！」
フリックは友人の肩に飛びつき、腕で首を絞めあげるようにした。その真の紋章の継承者相手に、なにを言い出しやがるんだ、こいつは。
「おまえはひとこと多い！」フリックはビクトールの首を絞めたままラズロに目をやった。「気にするなよな」
「ぼくより、そっちに謝ったほうがいいと思うよ」
ラズロが指さした先には黒髪の青年が相変わらずにこにこ立っていた。
この青年のことも、フリックはちゃんと憶えていた。なにしろ、この不思議群島人の友人だ。シャサラザード戦が終わるまでラズロは本拠地に滞在していたが、そのかん、一、二度は顔を見せてもいた。
だが、いつも穏やかに笑っていたはずの青年の顔は、いま少々、ぎごちなく凍りついている。
「痛い……シエラさま、爪立てないで……」
よくよく見れば青年の背中には可憐な美少女が負ぶわれていた。銀の髪に真紅の瞳。どこか深窓の令嬢と思えるほどに白い肌をした美少女であるのに、その細い眉はきつく寄せられている。
「おろせ、キリル」と低く少女が呟いた。
「な、なにするのかな」おずおずとしながらも、キリルは少女を背中からおろした。
白い膝上のドレスに白と青のショールを身にまとった少女は、優雅な足取りでビクトールのほうへと歩んできたものだ。
そして魅惑的とも言えるようなうっすらとした笑みとともに、熊のごつい顔に白い細い手を伸ばしてくる。
と――
「誰が尊大でわがままで、雷落として喚くだけの年寄りじゃと？」
そうして少女は、いきなりビクトールの胸ぐらを掴んだのだ。
「――!?」
「おいっ!?」
「あー……」
「あーあ」
ビクトールは驚愕に目を見ひらき、その目がぐるりとまわったと思うと、彼は天を仰いで倒れた。フリックはびっくりして茫然と立ちつくし、ラズロとキリルが同時に溜息をつく。
フリックは慌てて倒れたビクトールを揺すった。「おい、しっかりしろ――なにしたんだ、あんた！」
思わず振り仰げば、少女が腕組みし、まさに尊大に聳え立っていた。
「心配するな。少々貧血を起こしただけじゃ。血の気は多いようじゃから、すぐにも気がつこう」そして彼女は横を向いて大きく顔をしかめる。「それにしても、思ったとおり、まずいわ！」
ラズロがちらりと彼女を見やった。「咬みつかないでも吸えるんだ……」
「むさくるしい男に抱きつきとうはないからの。八百年も生きておれば、そのくらいの技術は覚える」そして彼女はラズロの肩に手をかけた。「ただ、口直しも欲しいところじゃが――」
「あとで」
フリックは熊男の襟を掴んだまま虚ろな目で白い少女を見あげた。「あのよ……もしかしなくても、やっぱり継承者？」
「月のシエラじゃ」とラズロの肩にしがみついたまま、少女は紅い目を向けてくる。
キリルがフリックのほうへと身を傾け、囁いた。「加えてシエラさま、吸血鬼なので」
きゅうけつき？
フリックは凍りついて、ばったりとビクトールの頭を地面に落とした。「どうしてそんなのと」
「そんなのじゃと？」
「いちいち聞かないで」
爪を立てて毛を逆立てる猫みたいになった少女を、ラズロが後ろから押さえた。
そのまま互いに腕を掴みあって力比べをしているらしいふたりを見つめていると、フリックのその目の前にキリルがにこにこ顔で割りこんできた。
「すみません、ご迷惑を」
「迷惑っちゃ迷惑だけど……」フリックはむっつりと青年を見あげながら、片膝をつきなおしてビクトールを揺すった。「俺たちは急いでたんだがな」
「どこへ？」
「この峠を越えていった子どもたちを追いかけて」
「子どもたち？」
「ちょっと事情が複雑なんだよ」フリックは峠の南と北を指し示すように交互に手を振った。「都市同盟とハイランドは現在、緊張状態。停戦締結の矢先に、ハイランドのユニコーン隊が全滅させられたなんて情報が流れた」
キリルは笑顔を消し、眉を寄せた。「じゃあ、停戦は……」
「ご破算だろうな」フリックは熊の肩を揺するのをやめ、今度はがつがつと頭を殴ってみる。「で、俺ら傭兵隊がひとり、いや、ふたりになったか。とにかく、そのユニコーン隊の少年たちを保護しててな。まあ、捕虜って名目にしといたんだが」
「逃げ出されたんですね」
「だから、それで追いかけてたんだよ。全滅したはずの少年隊の生き残りが故郷に帰ってきたなんて聞いたら、ハイランドの軍首脳部はどう反応するか」
「甘いわ！」
突然、少女の怒鳴り声が割りこんできて、フリックはびくっと顔をあげた。
キリルの背後でちょうどラズロが肩から地面に叩きつけられていたところだ。少年の見かけとはいえ海の男を背負い投げで沈めた少女は、そのまま腹を踏みつけてふんぞり返った。
「あっちはお気になさらず」キリルが目の前で手を振る。
フリックはそうすることにした。「で――どこまで言ったっけ？」
「保護していたユニコーン隊の生き残りが逃げたというところで――どちらへ？」
「もちろんハイランド領、キャロって町がすぐ近くにあるんだが」
キリルは北西のほうを振り返った。「ハイランド……キャロ？」
「なに？」と吸血鬼の少女の下で地面に這いつくばったまま、ラズロがキリルに目を向ける。
「ハイランド領だって、ここ」
「そう」
「それがなんじゃ？」と少女は足をそろえてラズロの上に乗ったまま片眉を跳ねあげる。「獣の支配する国じゃろうと、特に問題はなかろうが」
「大問題ですよ」
フリックは彼らを見比べた。「なにやってるんだ、おまえらは」
「ネクロードを追いかけてたんです」
「あ……」そういや、キリルのほうはそういう関係に近い仕事をしてるとかなんとか言ってたな。フリックは思わず気絶しているビクトールを見おろした。「やっぱり、まだ生きてるのか」
キリルが、ああと思い出したように頷いた。「お知らせするお約束でしたよね。でも、あの戦争のあと、あなたのほうが行方不明で」
「うう、それはすまん――ってか、レパント大統領には報せてあったはずだぞ」
「そこまで訊ねに行くことはありませんよ」
「おんしら」また吸血鬼の少女が割りこんだ。彼女は起きあがりかけているラズロの背中からおりて、立ちあがりながらぱたぱたとショールの埃を払う。「夜の関係かえ？」
なんの関係？
キリルがいまだに倒れたままの熊を指し示した。「こっちがビクトールさん。星辰剣の現在の所有者ですよ」
「ほほう……あのじじいに見込まれたわけか、難儀なこと」
少女の横に立ってラズロがフリックを示してみせる。「こっちはフリック。青い人」
「青、青、言うな」フリックはむっつりと呟いた。