１
最初の異変は白昼夢のような幻だった。
春の昼下がり。ぽかぽかと暖かい陽射しは、グレッグミンスターの上流屋敷が集まる区画、植木と芝で整えられた庭を持つ家のひとつひとつに惜しげもなく注がれていた。
庭先に広げられた昼食。グレミオとクレオと変わらない平和な日だったのに。
サンドイッチをかじりながら、クレオはいつまで独り身でいるつもりかと、からかうように訊いていたとき。
坊ちゃんがいてくださるから寂しくないですよ、ときれいな笑顔で家人は穏やかに笑った。
でも、と目をあげれば――
その笑顔が黒い霧の中にあった。
死神が鎌をもたげ、微笑を浮かべたままのクレオの背後に伸びあがる。
ティルは衝動的に椅子を蹴り、テーブルを斃した。サンドイッチが芝の上に散らばり、カップは転がって、ポットが湯気の中で横たわる。
自分の心臓さえ止まったかと思った。
クレオは変わらずそこにいる。笑顔が残った顔で、ちょっとびっくりして。
そしてグレミオが僕を助け起こすその姿も。
一瞬後には黒い闇の牙のあいだにあったのだ。
星とこの紋章の力で蘇らせることができた僕の大切な家族。
やっと取り戻せたわずかなものなのに。
それなのに、またいつかは――この紋章が……。
――わかっていたことだったのに。
忘れたくて。忘れたふりをして。
大丈夫だと――もう、誰も失わずにいられるかもしれないと。
そんな楽観的な希望をやすやすと砕いてくれる死神。
こんな呪われた紋章を持つ僕を、しかし、レパントはいまだに英雄として扱う。
「頼む……僕をもう、放っておいてくれ」そう言い捨てて、何度、帝都を出奔したか。
「関わらないでほしいんだ」と何度、仲間たちに懇願したか。
親しくなればなるほど恐怖は大きく育つ。
僕がひとりでいれば、孤独に耐えさえすれば、この紋章はなにも動かずにいられるだろうと。
そう思っていたのに。
◇
俯いた視界の中に血まみれの腕が一本、力なく横たわっていた。穀物袋からこぼれている小麦の下に誰かの足が埋もれている。
ばらばらになった荷箱の木片、折れた馬車の車輪軸、横倒しになった馬が一頭。その大きな腹はまだ呼吸の運動を繰り返しているが、頑丈そうな足は明らかに折れていた。
善良で親切だったキャラバンの一隊。途中までいっしょにどうだいと声をかけられ、短いあいだならと思って油断した。
突然襲ってきた男たち。盗賊だったのかどうか知らないが、ティルが無我夢中になって戦っているうちに彼らはキャラバンの人々のほとんどを殺していった。むろん、ティルや護衛たちの抵抗のために敵も幾人かは絶命している。手勢が少なくなったので、彼らはなにも手に入れられずに引き揚げていったのだ。
「くそ」背後で血糊と泥に汚れた剣をひと振りして、キャラバンの護衛だった男が吐き捨てた。「後味の悪い仕事になっちまった……」
その彼の言葉には顔をあげず、ティルは足もとをひたすら茫然と見おろしたままでいた。
「まあ、命があるだけましか。兄ちゃんもな」と男のごつい手が肩をぽんぽんと叩いてくる。「気にすんな、あんだけの手勢で襲われちゃしょうがねえ。こんな小さなキャラバンじゃ――」
ティルは男の腕を撥ねのけ、俯いたまま歩き出した。
「おい」
「放っておいてくれ」
なんのためにグレミオをグレッグミンスターに残してきたのか。
なんのためにクレオにもシーナにも告げず、ひとりで抜け出してきたのか。
薄暗い樹間へとティルは進んでいった。
暗い闇の作る迷路。
どうせ、どこまで行っても僕は死神だ。
◇
――もしそれに耐えられないようだったら、遠慮なく言って
――右手、斬り落としてあげるから
青い目。穏やかな無表情のまま龍が聳え立つ。
閃く白刃。
ティルは悲鳴をあげて飛び起きた。
途端にばさばさと梟が飛び立つ音がする。ひんやりと湿った森のなか、夜の闇が周囲を包みこんできた。
肩で息をして、小さくなった焚火の炎を見つめる。
「なんで……」ティルは引きつった喉を動かし、どうにか呟いた。
なんであいつの言葉が夢に出てくるんだ。それに、あの言葉を聞いてどうして――恐れる。
さっき自分の感じた恐怖は紋章を取りあげられるという予感からではない。ただ殺されると、そう思ったから。
この死神の僕が自分の死を怖がるなんてお笑い草だ。
そんな資格はないのに。
尊敬した人を、信頼した人を、誇りに思った人を、そして――親友を。
僕は殺してきたのに。
見も知らない人たちでさえ僕の目の前で斃れていく。
そしてこれからも、僕は数多の人々の命を喰らって生きていくんだ。
……わかっているさ。
僕は怖がっている。また誰かを、大切にしたいと思っている人たちを、僕はこの紋章のせいで次々と死に追いやっていくことを。すれ違っただけの見知らぬ人であろうと、彼らが動かなくなるその瞬間を見たくないと。
それが死神ということなのに。
この紋章とともに生きることを覚悟したはずなのに。
◇
……このまま誰にも継承させずに僕が死んだら、この紋章はどうなるのかな。
こんな誰も通らないような場所でずっと眠っていられるならいいのに。
暗い山道を縫うようにしてトランの領土をぐるりとまわってきたティルだが、この南方、大河に挟まれて山地が複雑に重なりあう場所で、ついに足を止めた。
ろくにものを食べていない。眠れば悪夢が襲ってくる。
自分でも重症だと思った。岩陰に腰を落とし、そのままずるずると地面に横たわる。湿った土が冷たく、落ち葉の腐ったような匂いが強かった。
継承者が戦死するとか、そういうことあるのかな。
紋章はそれを許すんだろうか。
二十七の真の紋章――世界に存在しなくてはならないモノ。
なぜと疑問を持つことすら許されず、この重みを抱えていかなくてはならないのか。
でも、テッドから託されたんだ。守ると約束したんだ。
だから――
ぼんやりと見つめる薄暗い森。空は曇った夜空で月の光も弱かった。
あやふやな闇のなか。
ふと、ティルの正面に黒々とした幻が現われた。周囲の曖昧な闇よりもはっきりとした暗黒。
幻覚かな。なんだろう。
――……我は百万世界を渡るもの。なれは我とともに行くか？
その声が目の前の暗黒から響いてきたのは確かだ。ティルはぼんやりとその闇を見つめた。
――呪いから解放され、安息を得たくば
解放――紋章からの解放？
「だめだな」ティルは呟いた。「僕はこの紋章から離れて生きることは考えていないんだ。だから……行かないよ」
――真の紋章は、人には過ぎた運命
かもしれないけど。
――いずれ終わる、この……
声が突如として切り取られた。
同時にぼんやりと見ていた目の前の闇が、まさに切り取られるように真ん中から分断される。そして次の瞬間には、あっというまにぼやけて周囲の薄闇に溶けていった。
代わりに両刃の武器を振りきった恰好でひとりの青年がそこに立っている。
くるりと武器をまわして姿勢を正すと、その青年は金色の目をこちらに向けおろしてきた。
……見たことのあるやつだったか？
「ティル君？」
僕を知っている？
湿った土を踏んで近づいてくる黒髪の青年。
ティルは彼が近くに来てから、ようやくのろのろと身を起こした。
「あんた……」
「ぼく、キリルっていうんだ。名乗るのは初めてだね」穏やかな笑顔。しゃがみこみ、こちらを覗きこんでくる。「よく門に引きこまれなかったものだけど……でも、どうしたの？」
だめだ。そんなに無防備に、どうして僕に近づく。
ティルは差し出されようとするその手を鬱陶しげに払った。「放っておいてくれ」
放っておけ、構うな――口癖になりそうだな。
金色の目をした青年は不思議そうに首を傾げた。「どうかしたの」
「紋章に喰われるから」ティルは軽く笑声を立てた。「誰もいないところを探していたのに、なんで僕を知っているやつが出てくるんだ」
うまくいかないものだな。そう続けて口の中で呟きながら、ティルはゆっくりと立ちあがった。
キリルがその動きを目で追って振り仰いでくる。そして怪訝そうに眉を寄せた。「ソウルイーターに、なにかあったの」
「こいつが貪欲だってことだよ」ティルは右拳を作って岩に叩きつけた。「どうあがいたって人の命を喰らうつもりなんだ。だから」そしてキリルを睨みつける。「離れてくれよ」
静かな青年の顔の中で金色の目だけが妙に光って見える。それを眺めながら、なんでこいつと話をしているのだろうと疑問が湧いた。名前も知らなかった、ただ一、二度、顔を見た程度の人間でしかないのに。
……そうだよ、こいつがあたりまえのようにソウルイーターって言うからだ。なんで知っているんだろう。
キリルも立ちあがり、手に持った武器の先で足もとの土を軽く掘るようにした。「でも、死にかけてるような顔してるよ、きみ」
そのとおりだろうな。「だから放っておいてくれ」
「できないよ」
「人が生きようが死のうが勝手だろう。あんたには関係ない」ティルは大きく手を振って彼に背を向けた。そのまま歩き出そうとして、しかし、軽い眩暈をおぼえ、立ち止まる。
呼吸を整えたあと、息のかたまりを吐き出した。
「ティルくん」とまたしつこい呼びかけ。
「うるさい――」
振り返ったそのとき、ティルは自分がなにをされたのか理解できなかった。ただ、目の前が一瞬ぶれると同時に強烈な衝撃を顔面に受けたらしいことはわかった。
抵抗するまもなく意識が身体から離れるような、そんな感覚をおぼえる。
気を失う直前、拳を突き出した青年の激しく怒った表情が見えた。
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