Forgiveness

１

「あんた、群島一の船乗りじゃなかったのか」
「うん？　そんなこと言われてるの？」
　濡れた岩に腰かけ、憮然として疲れた声で呟いたティルに、ラズロは相変わらずの無表情で振り返ってきた。
　その彼の背後に見えるのは晴れあがった青い空。この磯に打ち寄せる波はさすがに鋭いしぶきをあげているものの、遠くに見える海は非常に穏やかなものだ。
　そしてその磯の合間に見える沈みかかったヨット。
「海で生きて百七十年の大ベテランが、どうして難破なんかするんだよ」
「そういうこともあるんじゃないか」
「あのなあ」
　これが嵐の夜だったというのならそれも納得できる。だが、この見通しのいい、とても優しげな天気の日に、なにが、「あ、マストが折れた」だよ。手にかけて大切にしてきた大事なヨットなんだろ。たった一週間、帆走しただけで折れるような代物じゃないはずだ。それなのにあっさりと、「もうだめだな、捨てよう」って、本当になんのつもりだ。
「どうするんだよ、岩礁にぶつけて船粉々にして」ティルはむっつりと鉢巻頭を睨みつけた。
　腰かけた姿勢で膝の上に頬杖をつきながら、ラズロはぼんやりと頷く。「そのうち、この残骸も離岸流に乗って沖に出るだろうね」
「回収できないのか？」
「回収してどうするの」
　どうするって……。「修理するとか」
「そんな必要ない。もう、ここはファレナの大陸だよ」
「そりゃ……」目的地はここだったかもしれないけど。「また海に逃げなければならないときとか困るだろ」
「そのときはエルメラークにでも乗せてもらう」
「なんだそれ」
「代表的なファレナの外洋船」
　まただ、とティルは再び憮然とした。こうしてぽんぽん言いあいをしていると話の趣旨がどんどんずれてくる。ラズロはわざとそれをやっているのではないかというほど、無表情ながら飄々とした言葉のやりとりを繰り返し、気がつけば最初に問題としていたことがぼやかされてしまっているのだ。
　ティルは気を落ちつかせてから呟くように言った。「あの残骸を群島の人が見たら」
「ぼくたちが遭難したと思うだろうね」とラズロはやはり淡々として、ちっとも動じていない。
「騒ぎになるだろ」
「ならないよ。予定どおりだから」
「は？」
　目を剥いたティルに、ラズロは変わらぬ無表情で振り返ってきた。「きみとぼくはセイル中に遭難して行方不明。それでいいんだ」
「おい！」なんだよそれ。
「なに」
　落ちつけ、とティルは何度めかのまじないを心の中で繰り返した。こうして混乱したまま、こいつに食ってかかっても明らかに無駄。少なくとも、この事態とラズロの言葉とを整合させて整理するんだ。
　ティルは深呼吸を重ねてから、最後の息を吐き出すと同時に呟いた。「じゃあ、わざとぶつけたのか？」
「うん」
「………」
　なにも言えなくなったティルと海にあっさりと背を向け、ラズロは聳える崖を見あげた。
「さて、この断崖を越えないとね」

＊＊＊

　越えなければならないのは崖だけではなかった。
　足がかり、手がかりを探りながら、ずいぶん長いことかかってどうにか足だけで立っていられるほどの斜面に辿りついたものの、そこからはすでに起伏の激しい山地になっていて、どうやら大規模な山脈の一部に彼らは入りこんでいたらしい。
　それでもこのあたりはそれほど高い山ではないらしく、周囲はびっしりと樹木の帳だ。杉や松がほとんどで、楓や白樺もちらほらと混じっている。おかげで足もとは腐葉土の堆積。それらを栄養に蔦や下生えの草々は元気がよすぎて、足や腕にかすめるそれらは小さな傷を作ってくれた。
　そうして道なき道を延々と歩き、斜面を滑りながら、また、すぐかたわらに断崖を臨みながら、ティルは変わらぬペースで進みつづけるラズロのあとを追っていた。
　海軍とはいえ、さすがに現役の軍人というところか。ラズロはこうした悪路に尻込みすることはない。だが、体力的にティルとそれほど差があるとは思えなかった。よくよく注意して見つめていれば、足取りは変わらずとも呼吸のための肩の上下動は大きくなってきている。
　ティルは樹木の天蓋の隙間から空を見あげ、その色がやや赤みづいてきているらしいのを確認すると声をかけた。「休まないか？」
「さすがに疲れた？」
　ティルは溜息を抑えた。「あんただって息が切れているだろう」
「うん、でも、もう少しだと思うから」
　我慢して歩いてくれと軽く前方を指し示すラズロに、ティルはしぶしぶ頷いた。
　その言葉どおり、ひとつの急坂を越え、峠と思われる場所に出たあと、そこから少しくだったところで広い場所に出くわしたものだ。もっとも、広いといってもまだ目の前には崖が落ちくぼんでいるし、樹木も背後をかこんでいる。
　だが、赤みをうっすらと帯びた晴れた空の下、広大な景色を拝めた。
　岩棚の上に立ってそれらを見渡したとき、悠久の大地という言葉がまずティルの頭に浮かんだ。
　緑の平野が足もとにあり、その果ては南へ、西へ、ただひたすらに広がっている。それらのあちこちで夕陽を受けてきらきらと輝いているのはおそらく河。網の目のように幾筋もの川が交差し、合流しては離れ、この広い大地をくまなく潤しているように見えた。
「なにが見える」
　漂ってきた声にティルは振り返った。ラズロが一本の樹木の根もとにしゃがみこみ、小さな荷袋を下ろしてその中をかきまわしていた。
　ティルはそれをぼんやりと見つめ、しばらくしてからやっと彼の質問の意味が頭の中に入ってきたように感じた。
「……平野と河と――空。太陽」そしてまた広大な景色に向きなおる。「広いな」
「太陽と大河の国」
「ああ」
　この緑の大地人々はどのくらい住んでいる？　なにをして暮らしている？　どんな服を着ているだろう。どんなふうに笑うだろう。頭の中で想像したファレナ人はなぜか、みな笑顔ばかりだ。
　それもそうだろう。これだけの国土だ。民は幸せに暮らしていけるはず。
「すごいな……」ティルは深呼吸しながらあえて声を出した。「なんていうか……ファレナって豊かなんだ」
　背後からの応えは淡々としていた。「この豊かさも太陽の恵みと言われている」
　ティルは西に沈みかけているそれを目を眇めて確認してからラズロを振り返った。「真の紋章？」
　こくんと頷き、「紋章信仰は赤月やハルモニアよりも強いよ」とラズロは相変わらず抑揚のない声で言う。「神さま扱いされているから、かえって、例えば紋章を集めて太陽のもとに支配しようという考えはこの国にはない」
　つまり、ほかの紋章には興味がない国と、そういうことだろうか？
　なんとなく太陽の紋章を宿した光り輝く人物に向かって大勢の人々がひれ伏している、そんな想像図が脳裏に浮かびあがった。
　その沈黙のあいだにラズロが続ける。「太陽の力に敵うものはないのに、それを補う紋章を欲しがることはないだろう」
　そうしてひょいと投げてきたものを、ティルは片手で受け止めた。手のひらに収まるぐらいの乾燥したチーズだ。ひとくちかじってみれば、普段に食べ慣れていたものよりも少し塩っぽい。
　口の中がじわりと湿ってくるのをありがたく感じながらティルは頷いた。「なるほど」
「それに」と自分も同じものをかじりながらラズロ。「太陽の紋章で簡単に街ひとつ破壊できる。その恐ろしさはあらためて身に沁みただろうからね」
　真の紋章の暴発か。「それ、最近のことか？」
　ラズロは頷きながら身を起こして立ちあがると、荷物の中から今度は革袋を取り出してきた。それをティルに手渡し、南の空の下、やはり広大な平原を指し示す。「少し遠いけど、いまは復興した街があるはずだよ。行ってみる？」
「そうだな。どうせ物見遊山しかやることはないし、行けるところまで行くよ」革袋の中にあった生温い水をひとくち飲んでから、ティルは慌ててラズロを振り返った。「あ……路銀は」
「とりあえず真珠をいくつか持ってるし、いざとなれば王者を換金するから」
「………」
　ティルは無言でラズロのひたいに手を伸ばした。敵意も害意もないせいか、ラズロは動かず、ただ怪訝そうに軽く眉を寄せただけ。そうして鉢巻を指でちょっと押しあげてやれば、確かに小さな王者の紋章がそこにあった。
「なに」とラズロ。
「鉢巻の下になにを隠しているのかと思えば」
「べつに隠してるわけじゃ……ああ、緩んじゃった」
　鉢巻を結びなおすその作業を見守りながら、ティルはぼんやりと訊いた。「ずっとその鉢巻をしているのか」
「そうだね」
「理由を聞いても？」
　ラズロは手を下ろしてティルのほうへ青い目を向けてきた。「きみのバンダナと、たぶん同じ理由だよ」
「これは……」ティルは自分の頭に手をやった。「子どもの頃、グレミオが見つけやすいようにと」
　頷きながら、ラズロは荷物を揺すりあげるようにして歩き出した。