マクドール家の家政婦

１

　馬場をぐるりと駆けまわり、ひと汗かいたところでティルは馬を戻しに行った。
　厩舎ではいつもテッドが馬の世話をしながら待っていて、ティルを見るとブラシ途中の馬を放置し、こちらに駆けてくるものだ。
　そしてティルが馬の背から跳びおりると、間髪入れずにテッドはその手綱を取る。
　そうしていつものようにテッドは馬を引きながら笑いかけてきた。「朝駆けは気持ちよかったか？」
「そりゃね」とティルも笑顔で返す。
　テッドは二年ほど前、父親のテオが連れてきた戦災孤児だった。村を焼け出されたかなんだかで、当初は少々暗い雰囲気の少年ではあったが、途方に暮れていたところをテオが助けた、その一宿一飯の恩義を返すといって下働きのような真似を始めたのだ。もっとも超絶不器用で、窓を拭いているうちにガラスを割ってしまうとか、床を磨いているうちにワックスをぶちまけるとか、ハタキをかければ必ず物置にひびが入るといった按排。それをまた弁償するとか、借りは返すとか、そのあたりが妙に律義で、気がついたら長いこと、うちに毎日かよってきていた。おかげで、その家のひとり息子であるティルとは、おたがい年も近いこともあってすっかり打ち解けたものだ。
　将軍に借りがあるなら兵隊になって父さんのために戦ってみたらとも思うが、本人は、「戦は嫌いだ」の一点張り。たまに、「軍なんてものに入るとろくなことがない」なんて言い出す。将軍の息子であるティルに向かってだ。さすがに迂闊だと思ったのか、うっかり口を滑らせたあとはしばらく、それについての言及はなかったけど。
　とにかく彼は雑貨屋の屋根裏部屋を格安で借りて、こうして将軍家の馬場で働いている。不器用で、なにをやらせても借りを返すどころか、さらなる負債を背負いこむような結果に終わっていたテッドだったが、不思議にも動物たちの扱いはうまかった。聞けば知りあいにそうした動物たちの気持ちがわかるやつがいて、たまたま少しだけ、仕種から彼らの機嫌を推測する方法を教えてもらったらしい。
　ただ、ティルの見るところ、馬たちはどこか諦めにも似たおとなしさでもってテッドの世話に身を委ねているようではある。何頭かはちらちらとテッドのほうを見ては怯えたように首を竦め、ぶるぶると頭を振っていた。
　まあ、馬がどう思っているかはともかく、ティルはテッドのことが好きだった。うん、見ていると面白いしな。今度はどんな失敗をやってくれるかと、本当に飽きない。
　ただ、茶を淹れるたびに茶葉を床にぶちまけている限り、グレミオやクレオの仕事が減らないのはちょっと困りものだ。
「というわけで、家政婦をひとり雇うことにしたんだって父上が言っていた」
「なにが、というわけでなんだ」テッドは汗をかいた馬に適当にブラシをかけてやりながら呆れたように溜息をついた。「相変わらず唐突に話を切り出すよな、おまえは」
「前置きしたって面倒なだけだ」
「はいはい、で？」
「父上が偶然、クエストギルドとかいうところで働いているやつを横暴な下っ端官僚の暴力から助け出してね。その伝手で、腕のいいのをひとり派遣してもらえることになったって」
　テッドは眉を寄せた。「あのさ、おまえの親父さんは将軍で、その下っ端官僚のほうの遥か上の人じゃないのか」
「そうだよ」
　テッドはしばらくブラシの手を止めて空を仰いでから首を振った。「まあいいか。それにしてもテオさまは、どうして片っ端からそういうのを助けてまわるんだ？」
「たぶん趣味？」
「あ、そう」テッドはブラシの動きを再開した。どうやら、たてがみを何本か強引にひき抜いたらしい。馬がいきなり嘶いて、しかし、テッドが右手でぽんぽんと首を叩くと、ぶるりと青ざめるようにしておとなしくなったものだ。
　あの右手、いつもグローブに包まれているけど、きっとなんか魔法がかかっているんだろうな。
「……ひとこと教えておくけど」テッドは馬の腹に向かって呟くように言った。
「うん？」馬のつぶらな涙目を覗きこみながらティルは話を促がす。
「クエストギルドってのは、市井の人々、特に人を雇うほど金のない一般市民が頼るお助け屋組織だ。本部は南国のほうらしいけど、この国じゃ、打倒皇帝を掲げてる解放軍って連中の下請けをしてるようなもんだぞ」
「へえ」
「へえじゃなくて」
「細かいこと気にするなよ。とにかく、うちには家政婦がひとり増える。テッドも、もうガラスの弁償をしなくてもいいし、夕飯の前にグレミオの手伝いをしようとして皿を割る必要もないから」
「……そうか」テッドはがっくりと項垂れた。「そんなに迷惑かけてるとは思わなかったよ」
「二年も毎日うちにあるものを壊しつづけていて、いまさら」
「そうだったか？」
　引きつったテッドの笑顔を見つめて、ティルはにっこり笑った。

＊＊＊

　テオ・マクドールはとにかく度量の大きい人物だった。
　将軍の目から見れば、腹をすかせて死にそうな戦災孤児だろうが、単なる旅人だろうが、まったく同類項に括られるらしい。
　テッドは誓って、一度も自分を戦災孤児だなどと言ったことはなかった。腹が減って死にそうだとも、家をなくしたとも、情に訴えるような嘘はなにも言わなかった。ただ、ひとりで旅をしていると告げただけだ。
　それなのに、マクドール家の連中にはすでにテッドは戦災で村を焼け出された哀れな少年ということになってしまっている。まあ、確かに、この屋敷に来て最初に食事をしたときの行儀は我ながらひどいものだったとは思うさ。あのときは腹減ってたし、グレミオさんのシチューはとにかくうまいんだ。だから思わずわき目もふらずがっついて、勢いよく、「おかわり！」って叫んだけどな。けど、金がなかったわけじゃねえ。
　いずれにしても、最初の誤解をそのまま放置していたら、こうしてずるずる、グレッグミンスターなんてでかい街に二年も滞在する破目になっちまった。ほんとに我ながら、なにやってるんだよってなもんだ。
　ただ、相手は将軍家だ。飯食わせてもらったからって金を置いていくのも場違いな気がしてさ。だから、なにか仕事で借りを返そうとしたんだ。
　……そりゃ、俺が不器用だってのはわかってるよ。けど、こういう場合、仕事の中身より心意気だって考えたから。うん……まあ、失敗だったかもな。
　そんなわけで、俺はここに来て二年のあいだ通い仕事をしている。マクドール家の坊ちゃんは父親に負けず劣らず細かいことを気にしない性格で、身体を動かすほうが好きだという活発的な少年だ。誰からも好かれるし、友人たちのあいだにいればいつも自然と輪の真ん中に立っているようなやつだった。下働きしながら学校にも行けない俺が、本来なら目を合わせてぽんぽん言いあえる仲になれるはずもないんだが……。
　最初のきっかけは通いの武術道場に坊ちゃんを迎えに行ったときだった。クレオさんがちょうど俺の割った壺の修理をしていたから手が離せなくて、しょうがなく代わりに行ったんだよ。
　道場で心身を鍛えているとはいっても、物言いに遠慮のない十四、五のガキばかりの場所。ちなみに俺は三百歳で、心は立派な大人だが、見た目は連中と変わらないからさ。ちょっと裕福なガキどもが、格下の身分の卑しい子どもを見てなにをしはじめるかなんて、だいたい想像つくだろ。
　ようするに、師匠にさんざんどつかれて、むしゃくしゃしていたところ、門前でいかにもおとなしく坊ちゃんをお待ちしてますって俺が目についたらしいんだ。さっそくいじめのターゲットにしかけたんだが、その坊ちゃんが飛んできて、「僕の親友になにするんだ！」って、すっげえ剣幕で怒りやがって。
　いつ親友になったんだ、おい、って心の中で叫んださ。俺はとにかく、友達と言われることさえ誰であれ避けてきたんだ。それなのに、本人の諒解なしでいきなり親友かよ。
　ティルがそうして悪ガキどもを散らしたあとで、俺は当然、友達になった憶えもないのにどうして親友なんだって言って、ついでにあいつを遠ざけようとした。俺に友達はいらねえ、構わないでくれ。ただテオさまに借りを返したいだけだ、だいたい身分が違うだろってな。
　なのに聞く耳持たねえ。いや、持つ気もさらさらねえって感じで、「僕たちは気が合うと思うんだ」って、これまでの話や経緯をすっ飛ばしてくれたもんだ。話が通じねえと茫然となったのは何十年ぶりだったか。いや、百五十年ぶりだ。うん。
　そう、百五十年前に滞在した海の世界で、たしか同じようなことがあったなとぼんやりしているうちに、俺はすっかりティルの親友ポジションに収まっちまった。そしてやはりあの海での仲間たち同様、マクドール家の人々はいつのまにか俺をティルの親友と信じて疑わなくなっちまったってわけで。
　そうなると、俺は俺で二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。ああ、俺は自分の律義な性格が恨めしい。そして妙なところでお人好しな部分も。ひとかけらも疑いのない目で見られると、そいつを傷つけたくないって考えちまうんだよ。「坊ちゃんをよろしくお願いしますね」とグレミオさんに手を握られれば頷くしかなく、クレオさんに微笑まれると乾いたものであれ笑顔を作るしかなくなる。パーンてやつは、まあいい。食いもののことしか考えてねえ、ただの格闘馬鹿だ。とにかくテオさまにまで、「息子のよき友人として遠慮なくつきあってくれ」なんて肩をがっしりと揺さぶられた日には、目をまわしながら、「はい」って応えるしかねえんだよ。
　そんなこんなで、俺はティルの親友になった。最近じゃ、そう呼ばれるのも悪くないと思うし、この位置を気に入ってる自分がいるのもわかってる。
　だから、こういう生活も悪くないんじゃないかって……。
　不本意にも最近、そう思っちまったわけだ。