１
「最近、視線を感じる」
そう呟いた親友の横で、テッドはぐるりとあたりを見まわした。
「このおまえの親衛隊って連中じゃなくて？」
ティル・マクドールは、いまをときめく赤月帝国五将軍のひとり、勇将と讃えられるテオ将軍のひとり息子だ。いまだ十五歳ではあるが、容姿端麗、頭脳明晰、運動神経は抜群で、活動的、かつ健康的な好男子だった。武術道場でも師範代代理を務められるほどの棍の使い手、貴族の子弟が集まる学問所では常に模範的な態度で、教師に質問を浴びせる堂々たるクラスリーダー。
当然、人気者だった。特に可愛い女の子からは、その凛々しい笑顔を惜しげもなく振りまくせいで、学問所の帰りにはなにかしら、キャンディーやクッキー、たまに縫いぐるみなどといっしょにハートマークの散りばめられた手紙を押しつけられる。
もっとも、最近はその菓子や縫いぐるみといった少女趣味的物品はすべて、マクドール家の小間使いに横流しされてるんだけどな。ラズロがそれを喜んでいるかどうかは不明。食いものはその場で腹のなかに処分しているらしいんだが。
とにかく、今日も今日とて、マクドール家の坊ちゃんは彼のファンだという女の子に取り巻かれていた。
にこにこと愛想笑いをしながら、ティルはそのテンプレ笑みのままテッドに耳打ちしてくる。
「あからさまに好意をぶつけてくるこの彼女らとは違う。もうちょっと離れたところで、例えば街路の樹木の陰やごみ箱のなか、屋根の上で風呂敷をかぶって身を潜めながらこちらをひたすら観察しているような、そんな視線だ」
「ストーカーか」
「うーん、そんな平和な変質者ならまだいいんだけど」
ストーカーのどこが平和なんだかテッドにはわからないが、まあ、ともかく実害がないなら放っておけばいいじゃないかと結論づけ、彼らは家路に就いた。
マクドール家のきれいに磨かれた玄関を通り、ぴかぴかの廊下を滑って厨房を覗けば、グレミオが夕食の支度に忙しく、分身の術まで使って三つの鍋をかきまわしていた。その横では、クレオが割烹着姿でいんげんの胡麻和えを小鉢に分けている。
「あれ？」とティルは手に持った兎の縫いぐるみを掲げながら首を傾げた。ちなみにその縫いぐるみは今日の親衛隊からの贈りものだ。
その兎の耳越しに厨房を見まわしたティルは、明らかに不満そうな唸り声をあげた。「ラズロは？」
いんげんを一本菜箸で摘まみながら、クレオがわずかに眉を寄せる。「それが、今日はまだ夕食のお手伝いに来ていないんですよ。おかげでわたしが、ここでこんな恰好を」
「ええ？」ティルは兎を揺さぶった。「この人形のプレゼントをあげようと思ったのに」
テッドも思わず、ぴこぴこ揺れる兎の耳を押さえて親友の隣で身を乗り出した。「あいつが仕事をサボるわけがない。なにかあったんですか？」
「いいや？」クレオは首を振る。「今日は屋敷の床の拭き掃除をしたあと、廊下のワックスがけと二階のベランダの手入れをして、そうそう、昼食後に花壇の手入れをしていいかと言うから喜んで任せたのだが」
「花壇？」ティルが、そんなのあったっけという具合に首を傾げた。
「ああ、ティルがやたらめったらそこらで拾ってきた種を播いた結果の、あのジャングルか」テッドは厨房から直接、裏庭に出るほうのドアへと向かった。
マクドール家はそりゃ、一流の建築家が建てたごく普通の豪華な屋敷だ。庭も当然ながら広い――はずなのだが、その半分はティルが幼少の頃から育てていた植物もどきのもので埋まっていた。ようするに雑草だらけで、色の変なアジサイや妙に腰の曲がった幸せの木なんかもあって、チューリップにコスモス、ヒマワリ、スミレにタンポポと、多年草だろうが一年草だろうが好き勝手に育っている。そのあいだで蔦が這い寄り、たまに怒れるツタが通りすがりを攻撃したりするんだが、まあいい。
とにかく、モンスターさえ居心地がよくて育ってしまうような小さなジャングルで、ラズロがなにをしようとしていたのか。
というわけで、テッドはいつも見慣れていたその混沌の花壇を庭の奥に見出そうとしていたのだが……。
ジャングルは植物園になっていた。
きちんと種類ごとに並べなおされ、区画され、アジサイは青紫の花をつけ、へたばっていた幸せの木は生気を取り戻したように伸びあがっている。チューリップは枯れかけていた花を落とされ、来年に向けておそらくまともな肥料を与えられているらしい。花菖蒲は小さな池のほうに強制的に引っ越しさせられ、蕾をつけているところ。
テッドは思わず感嘆の息をついた。あいつはその手に罰の紋章のほかに緑の指も持っているらしい。今度、手袋を脱がせて確かめてみるか。
とにかく、さすがにここまで大仕事したもんだから夕食の仕事に間に合わなかったってことなのか？
ぽかんと別世界となった自分の家の庭を眺めて大口をあけているティルをよそに、テッドは形の整った柘植をまわりこんだ。
そこで目に入ったのは地面に投げ出されていた白い靴下と黒い靴のついた華奢な足。黒いワンピースがくしゃくしゃになってその足にまといつき、赤い鉢巻にまとめられた金茶の髪は泥の中に沈んでいる。
苦痛をこらえるかのように胸に手を当ててうつ伏せに倒れているラズロの姿に、テッドの心臓が大きく縮みあがった。
遥かな過去、何度、あの鉢巻頭が地面の上に落ちているのを見たことか。
「おい！」テッドは急いで駆け寄り、ラズロを抱えあげて仰向けた。
ぐったりと力のない四肢。青ざめた顔。ひらかない目。
揺さぶりながら口もとに指を当ててみれば、しかし、規則正しい呼吸をしていることがわかった。
……ああ、びっくりした。また死んだかと思った。
深く大きくゆっくりと息を吐き出しながら無意識にぎゅっと抱きしめ、テッドは脱力とともにその肩にひたいをこすりつけた。ったく、心臓に悪い――
「テぇぇッド！」
いきなり背後から首を絞められ、テッドは悲鳴をあげられずに目を白黒させた。
ティルはそのままテッドを引きずり倒すと、彼の膝の上にあったラズロの頭を引っ張るようにして抱えこむ。「抜け駆けするな！」
「じゃなくて、おまえ、ちょっと待て」テッドは咳きこみながら慌てて叫んだ。「そんなに乱暴に引っ張るな、ラズロでもさすがに首が抜ける！」
「そうですよ、坊ちゃん」
頭を両手で持ってずるずると引きずろうとするティルを、羽交い絞めにしたのはグレミオだった。
「眠ってる子を運ぶときは、ほら、こうして」と付き人の青年は坊ちゃんの両手を操ってラズロを抱えなおさせた。「背中から腕をまわして、腰のほうを支えて――脇を持っちゃだめですよ、肩に負担がかかってしまいます。そうそう、頭は上腕と肩で支えるようにして、がくがくさせちゃいけません。はい、これで完璧なお姫さま抱っこ」
「よし」ティルはラズロを持ちあげ、家のほうへときびすを返した。
ラズロはこの騒ぎにもかかわらず、また、ティルのおっかなびっくりな抱きかたにもかかわらず、ぐっすりと寝ている。
ほんとに寝てるだけ……だよな？ いや、どこか青い顔してるけど……毒？
テッドはティルの肩を掴んで引き止め、意識不明のラズロの様子を観察した。まあ、毒なら放っておけば抜けるだろうけどと妙に冷静に考える。
そのとき、「グレミオ？」とティルが背後を振り返って怪訝そうに呼びかけた。
テッドも振り返ってみれば、金髪の青年はラズロが倒れていた場所でやや腰を屈めるようにしていた。そこは棚段が作られ、その上にプランターや鉢植えが並べられていたのだが、グレミオはそれをひとつひとつ点検しているらしい。
「なにかありますか？」
ラズロがこういう状態になるような原因、その証拠になるようなものでも見つけたのかと思ったが、どうやら違ったらしい。
グレミオは軽く手を振った。「いえ、この薬草をちょっといただこうと思いまして」
その指のあいだに、ちらりと緑色の葉っぱのようなものがある。
「なんだそれ？ 雑草じゃないのか？」ティルが首を傾げた。
「いいえ、ちゃんとした香草ですよ」
「もう、そんなの拾ってなくていいから」テッドは早口に言ってティルを押し出した。「薬草がわかるなら、グレミオさんは毒消しでも探してきてくださいよ」
「市販のものでいいですか？」
「ええ」頷いたとき、遅ればせながらクレオが割烹着を脱いで駆けてきていた。それを見てテッドは軽く手をあげる。「ああ、クレオさんは清潔な布と湯を――」
そこでテッドは妙な気配を感じて一瞬、動きを止めた。
――視線？
くるりと振り返ると、柘植の垣根のむこうで人影が動いたような気がした。
「………」
「テッド？」ティルはラズロを抱えたまま、ドアをあけてくれとでもいうように目線をよこしてくる。
「ああ……」背後を気にしながらも、しかし、テッドは向きなおって家の裏口へと急いだ。
とにかくグレミオは毒消しを探しに、クレオは湯を沸かしに、そしてティルとテッドは眠りこけるラズロを部屋へと運んでいった。