１
広大な赤月帝国。ハルモニアより叛乱独立し、建国されてから二百二十四年。
中心にトラン湖を抱き、豊かな穀倉地帯と森林を持つその国土は中原の国々のなかでも最大の生産力を誇る。周囲をかこむ険しい山脈などは他国の侵略を頑なに守ってきた。その帝国のやや北東に位置する帝都グレッグミンスターは、小さな山や緩やかな丘、美しい草原、きらきらと輝く大河といった、のどかな風景画をスケッチするにはもってこいの景観の中にある。
だが、絵筆をかざしてモチーフの距離や大きさをのんびりと測っている画家は滅多にいない。
なぜなら、この草原にはご機嫌で飛びまわるクロウや、ざっかざっかと列を成して行進する兵隊アリ、草を薙ぎ倒して一直線に走っていくイノシシなどが出現するからだ。うっかりのんびりキャンパスを広げていたりなどすれば、少なくとも、なにをやっているんだとばかりに、ふさふさが好奇心で寄り集まってくるのは確かだった。
なので、赤月帝国の国土を旅する者は大抵、少人数であれ隊商を組んだり用心棒を雇ったりするわけなのだが……。
「無理、無理、無理！」
テッドは悲鳴をあげながらティルと並んで草原をひたすら走っていた。
背後からは青黒い羽を大きく広げ、クロウと呼ばれる鳥モンスターが滑空してきている。
「テッド、なんのための弓なんだ！ 鳥相手に真価を発揮しないでどうする！」ティルが走りながらじろりと視線を向けてくる。
「そうは言っても！」テッドは手にした鉄の弓を握りしめた。
いや、ほんと、一撃で仕留められりゃそれでいい。けど、絶対怒らせるだけだろ。弓を使うために足を止めたが最後、追いつかれてあの鋭い嘴と凶悪な爪で身体じゅうを穴だらけにされるに決まっている。そうでなくとも、ティルはすでに毒虫に刺されて顔が青緑色。だいたい、魔法も使えない俺たちが、ふたりっきりでこんな危ない草原を突っ切ろうってほうが無理なんだよ。
――まあ、使おうと思えば使える。けど、これはなあ……。
テッドはちらりと右手を見おろしてから、意を決して足を止めた。そして振り返りざま矢をつがえ、弦(つる)を鳴らす。
当然、一発必中。まっすぐ勢いよく飛んでいった矢は、ずがっとクロウの青黒い羽を射抜いた。
俺はこの弓の腕で三百年生き抜いてきたんだ。百五十年近くともにしてきたこの弓も、しっくりと手に馴染んで身体の一部のようなもの。言っておくが、決してなまってるわけじゃない。
ただ、ティルの前でソウルイーターを発動させたり、雨のごとき連射能力を披露するわけにもいかねえんだよ。
もし周囲に誰もいないなら、どうせ毒状態のティルには眠っていてもらうか……？
一瞬、テッドが攻撃目標を隣の親友に向けそうになったそのとき、怒り狂った鳥がひび割れた雄叫びをあげながら空から突進してきた。
テッドは慌てて矢をつがえた。ティルが棍をくるりとまわして構える。
どごん！
クロウの嘴がティルのひたいにめりこみ、親友はそのまま仰向けに倒れた。
「ティル！」テッドはつがえた矢を放ってクロウの息の根を止めながら叫んだ。
まったく、よけられもせず一撃でやられるくせに、どうして、「グレミオに内緒でふたりでレナンカンプまで行こう」なんて言い出したんだ、おまえは。
腕を取って引きずりあげてみれば、見事に目玉をぐるぐるさせて昏倒している坊ちゃん。
しょうがねえな、とっておきのおくすりを……。
懐に手を入れてそれを取り出そうとしたとき、テッドはふと視線を感じて振り返った。
緑色の草原の海の中で、茶色い毛皮のかたまりがむくりと身を起こすところ。
ぶるぶると荒い息をつきながら前脚で地面を無駄に蹴り、いかにも突進準備完了と首を低くしてこちらを狙ってきているのは――イノシシ。
この赤月帝国でイノシシといえばあれが普通だった。たとえ猪じゃなくて牛だろと叫ぶやつが大半であろうとも、あれがイノシシだ。
いずれにしても、テッドは動けなくなった。
どうする……あの突進を、自分だけならばなんとか避けられるかもしれない。いま掴んでいるティルの手を放せばだ。
だが、こんなことで親友を見殺しにするっていうのも、どうかと思うだろ。
しかし、あの巨大なイノシシの突進をまともに受けて無事でいられるわけもない。ふたりでばったり草原に倒れていたら……どこぞの隊商や通りすがりが拾ってくれるなら幸運だろうが、そんなうまい話がそこらにあるわけもない。せいぜい、ふさふさにたかられるのがオチ。となると、ここはティルを犠牲にして生き延びるのが最優先か――いや、ちょっとひどいこと考えたな、いま。
テッドがそろそろとティルの腕を放そうとしたのと、イノシシが大きく地面を蹴ったのとは同時だった。
しまった、ぐずぐずと悩んでいる場合じゃなかった――間に合わねえ！
ぞくりと、背筋を這いあがってくる慄えに押し出されるようにしてテッドは右手をあげた。
＊＊＊
それを見たとき、無謀にもほどがあるとハンフリーは思った。
自分のような甲冑に身をかためた剣士であればともかく、まだどこもかしこも線の細い十五、六の少年がふたり、ろくに殺傷武器も持たずに草原を走っているのだ。
どうやらカラスらしき鳥に追いかけられているように見えるが……巣に悪戯でもしたのだろうか。とにかく、赤月帝国の人気のない草原や山地というものは、あんな子どもがうろうろしていい場所ではない。
やがてひとりの少年が矢を射たと思ったら、カラスはいっぽうの少年に向かってまっすぐ突っこんでいき、そうして弧を描いてまた再び滑空を始めたところを弓使いにとどめを刺されたようだった。
とりあえず鳥の恐怖からは逃れたようだが……。
ぼんやりと歩いていたハンフリーでさえ、遠目にその少年たちを見つけたのだ。イノシシと呼ばれる好戦的なモンスターが獲物を逃すはずもない。
仕方がないな。
ハンフリーは大剣を背中から抜き、そのまま草を踏みつけて走った。
イノシシが地を蹴る。意識のある弓使いの少年は、しかし、なにを混乱しているのか、興奮したイノシシに向かって落ちつけとでもいうような恰好で右手をあげたようだった。
ハンフリーは一気に跳びあがり、大剣を頭上に振りあげ、そしてそのまま突進体勢のイノシシの背に振りおろした。
背骨を見事に折られ、モンスターは地面にべたりと倒れる。そのイノシシの上に降り立ち、ハンフリーはゆっくりと大剣を背中に収めた。
右手をあげたままだった少年が、茶色い目をまばたき、こちらを見あげてくる。
「………」無事かとハンフリーは訊ねたつもりだった。
「あ、ああ……」少年がこくこくと頷き、「ありがとう、助かったよ」
「………」ならいい。
「えっと、あんた――」
さすがに、これは声を出さなくては通じないか。「ハンフリーだ」
「俺、テッド」少年は応えて、気を失ったままの友人を揺さぶった。「で、こいつがティルってんだけど……ああ、もう、おくすり、おくすり――あれ、どこに落とした？」
ハンフリーも自分の懐を探ってみた。あいにく持ちあわせがない。
「………」すまんな。
「いいんだ」と少年が手を振った。「レナンカンプまで辿りつければなんとかなるし」
「………」引きずっていくつもりか。
「うーん、どうするかな」
ハンフリーは溜息を抑えながら少年のかたわらで身を屈めた。倒れている少年の腕を引いて背負おうとしたのだが、剣が邪魔でうまくいかない。
仕方なく大剣をテッドという少年に預ければ、少年は、「むしろティルを担いだほうが軽かったかもしれない」とぶつぶつ文句を言いながら引きずってくれたものだ。
そうしてふたりで荷物を担いで草原を行くあいだ、ハンフリーは不思議にも、この少年が自分との意思疎通に不便をきたしていないことに気づいたのである。
とりあえず自分でもわかってはいるのだが、ハンフリーは極端に無口な性質(たち)だった。はい、いいえのひとことさえ、頭のかすかな動きで示すだけ。とにかく、喋らずにいられるならそれがいちばん落ちつくのだ。
そんな自分と長いこといっしょにいれば、大抵の人間は……仲間のビクトールやフリックでさえ、「いいかげんに声を出して喋ってくれ！」と頭をかきむしるというのに、この弓使いの少年は素晴らしい忍耐力と洞察力でもって自分の言いたいことを推測し、会話（？）を続けていられるスキルを持っているようだった。
もしかして、もともと自分のような無口な人間が知りあいにいるのかもしれない。
ハンフリーはいつもどおり黙ったまま、それでも返事と会話を続けてくれる少年とともにレナンカンプの入口をくぐったのだった。
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