１
「これは、ひどい」
容赦なく呟かれたラズロの言葉に、テッドはなにも弁解できなかった。
横に並んで立つティルも、さすがに眉を寄せる。「テッドが不器用だというのは知っていたけど……」
マクドール家から歩いて数分の場所にある馬場。もちろん街なかにあるようなものだから、大自然の中に馬が放牧されているのとは違う。きちんと均された柔らかい土と手入れされた芝生、それをきっちりと区切る柵が立てられ、馬たちはその中でトロットやペーシング、また、ギャロップやら、さまざまに調教されて躾けられるのだ。
そしていちおう、この馬場はマクドール家私有のものだった。ただつい先日、ちょっと派手な暴れ馬事件があり、練習用の柵や障害物が一部破壊されてしまったのだ。そしてその馬場で働いていた調教師たちもほとんどが負傷。
おかげでテッドにも、そうした施設の保守作業がまわってきたわけなのだが……。
柵を修理していたはずが、なぜその柵が幼稚園児の積み木状態の不思議な形になり、周囲の芝生まで掘り返されているような事態になっているのか。
「これさ」とティルが自分の背の高さにまであるテッドの作った柵――どこかしらタコが踊っているような形に見える――を指し示して呟いた。「帝立美術館に寄付したほうがよくないか」
「うるせえ、だいたい、馬を暴れさせたのはどこの誰だ！」
「僕じゃないよ。ただラズロを乗せようとしただけで」
「………」
しれっと言ってのけるティルと、サンドイッチの入ったバスケットを持ったまま目を逸らすラズロ。
「馬が苦手だっつってんのに、強引に乗せようとするおまえが悪い。そしてラズロ！」
テッドは彼女のリボン代わりの赤い鉢巻で括られた髪をひっ掴んで、ティルからずいぶんと引き離してから小声で叫んだ。「いくらいやだからって、馬に永遠なる試練浴びせんじゃねえ！」
「そうでもしないと、諦めてくれないと思った」
「諦めなかったのはティルだ。馬だっていやがってただろうが、なんで馬が罰を受けなきゃならん」
「じゃあ、ティルに――」
「――静かなる湖」
左拳を突きあげかけたラズロに、テッドはすかさず水魔法をかけた。百五十年前、「ラズロに無茶させないようにしてね、いざとなったら罰魔法はこれで阻止して」と言って、どこぞの島国の王女が無理やり俺に宿させた流水なんだが、ずっと持っていて正解だ、ざまあみろ。
というわけで、たちまち沈黙状態になったラズロだが、まあ、普段からあまり喋らないので不便はないらしい。無然としたものの、黙ってバスケットを差し出してきた。
「いちおう、食いものは用意してくれたわけだな。休憩させてもらうか」
と振り返れば、ティルがテッドの〈作品〉に上着をきせていた。
「なにしてるんだよ」
「かかしになりそうだと思って」
「馬場にそんなものはいらねえ、っていうか、馬が怯えるだろ」
「僕はただ、これはすでに柵ではないと言いたかったんだ」
「俺にこういう作業させるほうが悪い」
言いあっているふたりのそばでは、ラズロがせっせと荒らされた芝生の上に茣蓙を敷いて、屋敷から持ち出してきたカップやスプーン、皿や砂糖瓶、ジャムの瓶詰などを並べていた。そしてレモンを手の上で素早くナイフでスライスし、シナモンを削る。水筒に詰めてきた水をポットに移して火炎の札であたため、温度を測りながら茶葉を蒸らしている。
どうでもいいが、野外でやるお茶の時間ぐらい、もうちょっと手を抜けよ。
「やっぱりラズロのお茶は、どこで飲んでも甘くておいしい」とティルはご満悦。
テッドは横から差し出されてきた茶を受け取りながら、うんざりと親友の手もとを見つめた。ティルはいま、あんずジャムをたっぷりとスプーンですくっている。
ようするに茶が甘いのは、おまえに合わせてフルーツフレーバーだのバニラだのブレンドしてやってるからだろうが。そのうえでジャム入れて飲んでりゃ甘いに決まってる。
逆にテッドは、いつも香りの抑えられた濃いものを供されていた。そりゃ、俺はミルクやシナモンを入れるほうが好きだけど、いつのまに嗜好を覚えられたんだかちょっと不気味だ。っていうか、こいつ、ここまで気のつくやつだったっけ？
「紅茶の淹れかたなんて、どこで覚えたんだ？ 群島じゃ茶はともかく、紅茶は結構、高価なものだっただろ」
ラズロは使い終わった温度計で地面に丸を描いて点々とさらになにかをつけ加え、とんとんと指し示した。ぱっと見――なんだろうな、幼稚園児の描いたふさふさ？
……ああ、そうか、うん、沈黙状態だから似顔絵で訴えようと思ったんだろうけどな。正直言って、ティルはそれが人の顔だとはわかってねえぞ。
案の定、ティルは首を傾げた。「おまんじゅうは、いまはないよ？」
きらりと青い目が光ったが、それだけだった。ラズロは絵で訴えることは諦め、ティルのお茶のおかわりを淹れはじめたものだ。
そしてそのおかわりを飲んだ途端、ティルの頭に風船がぽんと浮かびあがり、「僕はシュトルテハイム・ラインバッハー」などと、でたらめに叫びながらあたりを転がりまわることになった。
風船と混乱……？
「………」ラズロは使ったらしいミントの葉っぱを湯の中から摘まみ出した。
「饅頭やらんとは言ってないだろ。それでなくても仕返しに不思議なミントを使うな！」テッドはラズロの金茶頭を拳骨でぶち飛ばし、サンドイッチのそばにあった皿を持ちあげて叫んだ。「ティル、サラダを食え！」
坊ちゃんの顔面にまっすぐ皿をぶち当てたテッドだ。結果的にティルは正常に戻った。
「うん、ラズロのワカメとシラスのサラダはおいしい」とそのまま、もぐもぐ飲みこんだらしい。
こんな目に遭ってもなお、ラズロ一途。ある意味、脱帽ものだ。
さて、そんな感じでお茶の時間も終わり、テッドは作業に戻ることにした。ティルはそのまま見物する構えで、ラズロはとっとと茶の道具をしまい、片づけを終えている。
それまで作っていた柵をいったん壊しにかかれば、「素晴らしい芸術作品なのに」とティルがからかうように言ってくる。
「ちくしょう、俺だってまっすぐ杭を打つぐらいはできるはずなんだよ」テッドはむきになって叫んだ。
新しい杭を拾いあげ、ちらりとラズロに目を向ける。
目を向けただけで特に合図をしたわけではないものの、なにかの本能か、それまで茣蓙を畳むのに集中していたラズロがぴくりと顔をあげた。「……？」
テッドは指を立て、くいと曲げる。「手伝えよ」
「あれ、僕には声をかけてくれないの」とティル。
「かけたって、やってくれねえだろ」
そういうわけで、テッドは頼もしい助っ人を確保して作業を再開したわけだが……。
このラズロ、やるとなると、とことんきっちりやるんだよな。ただの馬場の境界柵、べつに競技用のコースというわけでもないというのに、しっかりと距離を測り、杭を打つ場所を計算して印をつけ、それからでないとテッドに杭を打たせないという気合の入れよう。
見物人のティルがちょっと退屈してしまい、迷いこんできたふさふさと戯れ出したものだ。
「あのよう、そろそろ終わらせたいんだけど、仕事」さすがにテッドは文句を言った。
ラズロはその青い目で、きっ、と睨みつけてくると、持っていた杭をくるりとまわし、がんと尖った先を地面に突きこんだ。そして手を振って合図してくる。
テッドは木槌を持ちあげ、まず一打、杭を叩いた。大抵、この一打で、ぐに、と杭が曲がってしまうことが多かったが、いまは支えてくれるラズロがいるので、それはまっすぐ素直に地面に食いこんでくれる。
まあ、なんのかんのといって、こいつのしっかりしたサポートは頼もしいんだよな。
そうしてテッドは、なんとか一定距離をおいて数本の杭を打つまでに漕ぎつけたのだった。
ティルがふさふさを頭の上に載せながら感心したように呟く。「やればできるじゃないか」
「あのな――」テッドは親友をちらりと睨みつけながら木槌を振りおろした。
がつ、ごり。
……？
いま、なんか妙な音が……。
視線を手もとに戻したテッドは、そのまま一瞬にして凍りついた。
いま振りおろした木槌の下に、ラズロの左手。
「………」ラズロは無言のまま、杭を支えた姿勢でじっとしていた。
「………」ええと……え、なんだ？
いちばんまともな反応をしたのは意外にもティルだった。「テッド、木槌どけろ！ なにをぼーっとしているんだ！」と叫びながら、ふさふさを放り出して駆け寄ってくる。
「あ……ああっ、すまん！」テッドはやっと我に返った。「てか、悲鳴ぐらいあげろよ。おまえ、痛くないのか！」
ラズロはじっと無表情にテッドを見あげただけだ。「………」
あっ――沈黙解除してなかったからか！ すっかり忘れてた！
「手っ！」ティルがラズロの手を引っ張った。
途端に彼女は無表情のままに引きつる。
テッドは慌ててふたりの手を同時に押さえた。「待て、引っ張ったら余計に痛いみたいだって」
「それって突き指!?」
「違うわ！」
ラズロが自由になった左手を軽く持ちあげてみる。「………」
「ど、どうなったんだ？」ティルが覗きこむように見おろした。
テッドも親友と並んで彼女の手袋に包まれたそれを見つめる。「もしかして骨折か？」
こくん。
「そんな！」ティルが再び彼女の手を取った。「見せて、手袋外して――」
手袋――左手！ それはやばい！ テッドは、はっとして再びあいだに割りこんだ。「だめ、だめ、だめ！」
「なんだよ、服を脱がせようというわけじゃないぞ」
「誰もそんなこと言ってねえ！」
ぎゃあぎゃあと言いあうふたりのあいだをすり抜け、ラズロはとことこと屋敷のほうへ向かっていった。