１
「ふふ、こんにちは」
嫣然と微笑んできた来訪者をひと目見た途端、テッドの脳裏に浮かんだのは、ぼいん、という効果音。
まさに、ぼいんとしたふたつの果実は目の前の妖艶な美女の胸にたわわに実っていて、それを覆う布はベルトじゃないかというぐらい細い布一枚。くびれた腰はつややかな肌色を惜しげもなく見せ、やはり申しわけ程度に巻かれた薄布はひらひらと、ボリュームのある尻を見えそうで見えないぐらいに覆っている。
そんな恰好をした女性を前にしたとき、十代の青少年であれば普通はぱっと顔を赤らめて視線を逸らすか俯くかだ。だが、テッドは三百歳、いまさら女性の裸体がどうのこうのと意識することも……いや、興味がないわけじゃないけど。
とにかくテッドは一般的な反応とは違い、彼女を見て、さあっと青ざめたのである。
そして背後を振り返り、誰もいないホールのそのむこう、ドアに塞がれて見えないものの、いまはお茶の支度にぱたぱたと駆けまわっているだろう家政婦に向けて怒鳴りつける。
「らああずろ！ なんてものをこの屋敷に連れてきやがる！」
それに応えたのは来訪してきた妖艶な美女のほうだった。「ひどい言われようだこと。ちなみに、わたしが勝手に来ただけよ」
「なんで来るんだ！」
「死神さんに会いに」
ぞっとしたというのは、まさにこのときのことを表わす擬態語だろう。テッドは全身青色のままかたまった。
さすがに彼女も柳眉を大きく寄せる。「いやね、冗談よ。そこまで鳥肌立てないでちょうだい」
そりゃ、あんたが変なことを言うから……いや、変なことは言ってないが、ただ、どうしてかわからないが、この美女が自分に会いに来たと考えただけで、この世の終わりだという気分になっちまったんだよ。
「とにかく……」テッドは両手のひらを見せるようにして、まるで押しとどめるかのような恰好で彼女に向きなおった。「紋章師のあんたがこの家に用があるとは思えないんだけど、ジーン」
「ラズロさんにお願いがあって来たのよ」ジーンは胸を寄せるようにして腕を交差させた。そしてちらりと奥のほうを見やり、「こちらでお掃除なさってるんでしょ？ 罰の紋章に絡むことだから、直接お会いしたいのだけど」
罰に絡むことって……物騒なことにならねえだろうな。
「なおのこと、この家じゃまずいだろ。あいつには伝えとくから、ええと……」テッドは、できれば彼女を押しこんで外に叩き出したかった。だが、彼女の身体のどこもかしこも生肌。それに直接触れるなんて恐ろしいことなんかできるわけがない。「そうそう、マリーさんて人がやってる宿屋があるからさ、そっちで――」
「テッド君？」
背後からかけられた声にテッドは本気で、「うおぁっ!?」と引きつったものだ。
肩越しに振り返れば、ドアから顔を覗かせていたのはクレオ。「お客かい？」
「あ、いやっ、そのっ」テッドは慌てて壁ぎわに跳び退がった。おかげでクレオの位置からジーンの姿が真正面に見えるようになってしまう。しまった……。
案の定、クレオは絶句したように口を閉じ、それ以上の質問もせずにただじっと露出度の高い紋章師を見つめたものだ。
「こんにちは」とジーンはにっこりと微笑んだ。
「ら、ラズロの知りあいなんだ、俺には関係ありませんから！」テッドはようやく叫んだ。「だからその――」
「ジーンさん」とクレオの後ろ、焼きたてのカスタードパイを両手に持って、ちょうど廊下を通りすぎようとしていたラズロが気づいて足を止め、玄関ホールに入ってきた。
少女家政婦と妖艶な客人とを見比べ、クレオが曖昧に頷く。「そうか、ラズロちゃんの知りあいなんだな」
こくんと金茶頭が上下に動けば、クレオはまたジーンに向きなおり、しみじみと頷いた。「なかなか潔い恰好だ」
「ありがとう」ジーンはまた微笑んだ。そしてラズロに向きなおる。「急に連絡もせずに押しかけてごめんなさい。まさかテッドさんと同居してらっしゃるとは思わなくて」
「同居なんかしてねえよ！」
「テッド君は近くから通いで来ている子でね」
クレオの説明にジーンは一瞬、訝しげに眉を潜めた。「……子？」と小さく呟くと、すぐさまにこりと、なにを考えているのかわからない笑みを浮かべる。「なるほど」
頼むからばらすなよ、絶対に余計なことを言うなよ、とテッドは鋭い睨みつけでもって彼女を牽制した。
そのあいだにクレオはラズロの手からパイを取りあげ、中に客を通すようにと勧めている。「お茶の準備もこれで最後だろう。坊ちゃんとグレミオが歩行訓練の散歩から帰ってくるまでは暇があるから、ゆっくりしているといい」
ありがとうと無表情に頷いて、ラズロはジーンを手招き、廊下へと引き返した。
「なんでこの家には妖怪が寄りつくんだか……」ぶつぶつ言いながら、テッドもなんとなく彼女らのあとについていく。べつにジーンに話があるわけでもないし、ラズロに用事があったわけでもないのだが、このふたりがそろっていて放っておけるはずもないだろう。まして先刻、ジーンの口から出た罰の紋章に絡む件と聞けばなおさらだ。
じつのところ、ジーンはそれほど厄介な人物ではない。このあいだ来たラズロの親戚連中のように事件を起こしたりひっかきまわすことはないし、犯罪とは縁のないまじめな紋章師であることは確かなのだ。それに、こんな恰好をしているからといって異性を誑かす真似もしない。すり寄ってくる男たちにも、真っ赤になる青少年にも、あるいは服を着ろと注意してくる堅物にも、さらには荒くれ者や犯罪者どころかモンスターや動物にも、彼女は等しく微笑んで穏やかな応対をするものだ。
ただ、テッドが真の紋章を持っているせいかどうか知らないが、とにかく昔からこの紋章師は得体が知れないという気がしてならなかった。微笑みの裏に底知れない異質なものが、ときおりテッドの本能に感じられることがしばしばなのだ。そして百五十年ぶりに再会したいま、絶対こいつは人間じゃないと確信したテッドである。
ようするに、いまうっかり呟いてしまったものだが、まさに妖怪。正体を見極めたいと思わなくもないが、知ったら知ったで、そのときはたぶん自分がこの世界に存在できなくなるんじゃないかという気さえしてくる。
まあ、ラズロなどはおそらく、「ジーンさんは、ジーンさん」とあっさり流すんだろうな。ビッキーが突然現われても特にリアクションはなかったって聞いているし、船大工が作った憶えのない部屋にいつのまにか棲息していた双子を仲間として当然のように扱っていたし、なにより、霧の船なんて異次元の魔法船に乗っていた俺を真顔で勧誘してきたぐらいなんだから。ジーンの正体が本当に妖怪だったとしたって、きっとその存在をあたりまえのように許すに決まっている。
だからこそ、罰の紋章もこいつに懐いたのかもしれねえけどな。次々と宿主の命を食らいつくしてはひとつところに落ちつかなかった紋章が、なんで百五十年もラズロのもとにとどまっていられるのか……。
俺も長く紋章を抱えている宿主のひとりだけど、果たしてソウルイーターは俺のこの右手が居心地いいとでも思ってるのかね。
そんなことを考え、うっかり自虐的に笑いかけたテッドの目の前でパーンの部屋のドアがひらいた。がりがりと頭をかきながら大柄な格闘家青年がのっそりと出てくる。
「あー、メシはまだ――あ？」
頭に手をやったまま、パーンはその場でぴたりと動かなくなったものだ。
ジーンは彼の前を通りすぎながら、「こんにちは」と秋波を振りまいていく。
顔を赤らめもせず、あるいは青ざめもせず、パーンは無言でジーンの胸もとを見つめていた。
「パーンさん、お茶の時間もまだですから、夕飯はそのあと」テッドはかたまったままのパーンを後ろ向きにさせ、そのまま彼が出てきた部屋へと押しこんだ。