１
「旅行？」
テッドはスコーンにクロテッドクリームを塗ったところでマクドール家の坊ちゃんに目をやった。
マクドール家の定番になった午後のお茶の時間、ラズロとグレミオはせっせと菓子の皿を並べ、お茶とミルク、ジャムを用意している。それを片手間に手伝いながら、クレオはがっつこうとするパーンに制裁鉄拳を浴びせていた。
その光景の中でティルは、クリームの上にさらにイチゴジャムを載せながら頷く。「学業も終わったし、士官はまだ二か月先だ。この余暇を利用して半月ぐらい国外に出てもいいかと思って」
士官――もう、そんなに経ったのか。俺がこの家に来た頃はこの坊ちゃんは本当にまだ子どもって感じだったのにな。気がつけば背丈も俺を追い越そうとしているところ。
そろそろか。
俺も覚悟決めないと――この街を出ていくか、それとも……。
グローブの下にあるはずのソウルイーターの代わりにスコーンの上で溶けはじめているクリームを見つめながらテッドは溜息を抑えた。「まあ、グレッグミンスター以外の土地をゆっくり見てくるのもいい勉強だろうな」
彼の父親のテオ・マクドール将軍は当然、軍隊の指揮官という立場上、国外に出ることはできない。したがって、幼い頃、遠征する父親について赤月帝国の各地を連れまわされた経験があるといっても、ティルは外国への旅行などには縁がなかった。そういう意味でも、おそらく坊ちゃんにとってはいい機会だろう。
ティルは菓子に食いつき、もぐもぐしながらまた頷く。「ちゃんと、ふたりぶんの旅費も父上からいただいたし」
「え、俺もか？」
テッドは殴り飛ばされた。
だからどうしてこう、マクドール家の連中は暴力的なんだと、テッドは死守したスコーンからぽたりと垂れたクリームを床の上に転がりながら口でキャッチする。
そのまま菓子に食いつきつつ見あげれば、坊ちゃんは澄ました顔でお茶をすすっていた。
「ラズロと僕だ、あたりまえだろう」とティルはむっつり呟く。
「そんな、いけません、坊ちゃん！」叫んだのはグレミオだ。
付き人から目を逸らし、ティルは小さく舌打ちする。
グレミオは坊ちゃんの背後でちょこまかと動きまわった。「ふたりきりで旅行はともかく」
「ともかくかよ」
起きあがりながらテッドは思わず突っこんでしまったが、グレミオは聞いておらず、さらにティルの坐っている椅子を揺さぶるようにする。「このグレミオを置いていくなんて、坊ちゃん！」
「僕はラズロと行きたいんだ、彼女の故郷の海ってものをこの目で！」
よりにもよって群島諸国に行くつもりかよ。「見るのが目的なら、べつにラズロを連れていかなくても」
「旅行のあいだ、彼女の料理なしで過ごせると思うのか」とティルはテーブルの隅でシナモンを削っている家政婦を指し示す。ラズロは仕事に集中していて、こちらの騒ぎにはてんでおかまいなしだ。たぶん聞こえてはいるだろうけどな。
そしてティルは憮然として溜息をついた。「それを言えばグレミオのシチューと離れて暮らせるのかどうかという不安もあることはあるんだけど、まあいい」
「坊ちゃんめ……」テッドは椅子に坐りなおした。「だいたい、ラズロの諒解は取ったのか？」
「まだ」
「おーい」テッドは家政婦を呼びつけた。
ラズロはとことこと近づいてくると、テッドのぶんのシナモンミルクティーを目の前に置いてくれる。
そしていつもの無表情のままティルに青い目を向けた。「行かない」
「どど、どうして！」とティルは本気で予想しなかったとでもいうようにうろたえた。
「仕事」
「僕の世話はしてくれないの？」
ラズロはポケットからギルドの依頼書を取り出してみせた。そこに書かれた仕事内容はマクドール家の家事雑用全般という曖昧なものだ。しかし、決して御曹司の世話役という一文はない。だいたい、ティルの世話役はグレミオとクレオの古参が占めてるだろうがよ。
ティルはしばらくティーカップを睨みつけるようにして黙りこんでいたが、やがて大きな溜息とともに顔をあげた。「……仕方がない、グレミオ、クレオ、パーン、旅支度だ。マクドール家全員で旅行しようじゃないか」
クレオがレモンをお茶に落としながら頷き、パーンは両手にサンドイッチとスコーンを握って口の中にアーモンドクッキーを頬張ったまま、こくこくと頷いた。グレミオはさっそく坊ちゃんの旅支度をせねばと、そそくさとサロンを出ていったものだ。
そうしてティルは、おもむろに振り返ってくる。「テッドもついてきていいぞ」
「俺はおまけか？」
半眼になって睨みつけてやったというのに坊ちゃんはまったく気にせず、今度はくるりと少女家政婦に向きなおった。「とにかく、マクドール家が旅行するんだ。だったら、きみもついてくるだろう？」
こくんとラズロは頷いた。
やったあ、と飛び跳ねる坊ちゃんを椅子に坐らせ、クレオが冷静に日程を組みはじめる。相当の長距離になるから隊商に参加させてもらうか、川沿いに南下するなら船を手配するべきかと、意外としっかり計画を練っているようだった。パーンはその隣で黙っていたが、ただ残飯整理に夢中で口が利けなかっただけだろう。だが、道中で口にできる珍しい食べものの話になってもあまり興味を向けない。まあ、この格闘家青年、食べること自体が生活という人間であって、べつにおいしいものや珍しいものを好んで求めるというわけではないからな。そこに食いものがあれば食う、なければ寝る、それだけだ。
また、グレミオが戻ってきて着替えは十日ぶんくらいで間に合うかなどとやかましく聞いてくるものだから、クレオに無駄な荷物を増やすなとしっかり注意を受けていたりと、妙に浮かれて大騒ぎだ。
そうしたマクドール家の人々を遠目に見ながら、テッドはちらりと横で皿を重ねて片づけをしている家政婦に囁く。「大丈夫なのか、帰って？」
ラズロは現在、ハルモニア神聖国から指名手配されていた。といっても、その手配した神官はもう他界してるんだけどな。しかも百年以上も前にオベル王国に対して脅しまがいの縁談を仕掛けてきただけのことが発端で、ラズロはその縁談を避けるべく群島諸国を出奔することになった。その彼女に対してたぶん、彼らはやけくそ気味に懸賞金をかけたのだろう。だが、なぜかいまだに実効のある指名手配書が群島諸国近辺に散らばっているそうだ。
まあ、仕方がない。縁談の相手もまた不老の継承者、時効が来るとすれば、ラズロかヒクサクか、どちらかが継承を譲ったときしかないだろう。おたがいに顔も見たことがないっていうのに大変だ。
とにかく、ラズロは紋章狩りの代わりにそうした賞金稼ぎやハルモニアの特務に狙われていはいるのだが、北の連中は特にラズロの故郷、群島諸国を中心に情報網を張っていることだろう。
むろん、そのことを坊ちゃんやその付き人たちに打ち明けるわけにもいかないが、その状態で海に里帰りできるのかとテッドは少し心配になった。
だが、ラズロは意外にも暢気に首を傾げる。「日程が」と苦笑を混ぜたような声で呟いた。
「ん？」
「群島まで、行けない」
そういや、半月の旅行だったっけ。ああ、そうか、海に出たらさらに半月は必要だよな。
「なんだ」テッドは軽く吐息をついた。そうしてから、わずかに眉を寄せる。「え、じゃあ、どこへ行くことになるんだ、俺ら？」
ラズロはこくんと首を傾げた。「グラスカ小国、までかな」