マクドール家の家政婦

　夕飯の後片づけと風呂の始末をしたあと、テオ将軍がいない夜には、さすがにラズロも就寝前の戸締まり以外には仕事がなくなる。大抵の場合、ラズロは部屋に好物の饅頭を持ちこんで、そこで自分の時間を持つわけだ。
　しかし、この夜、彼女は饅頭と語らうわけにいかず、せっせと緑色の毛糸と格闘していた。
　なぜなら、ティルが例によって、「ラズロの手編みのマフラーが欲しい」などと、ごねたせいである。
　それにしたって、ファンクラブの女の子からそのマフラーをもらっておいて、それをラズロに渡しながら要求することでもないと思う。ラズロにしてみれば、なんでそのもらったマフラーじゃだめなんだと疑問の残るところだろう。
　だが、まあ、しょうがない。ピンクに真っ赤なハートマークの散ったマフラーじゃ、さすがになあ……。
　そのあたりのセンスはラズロは意外と普通だった。ティルのトレードマークのバンダナに合わせて深緑色の毛糸を選び、細かな鎖編みだけの、じつにシンプルなものをせっせと編みはじめたのだ。
　ちなみに、編みはじめたのはつい一時間ほど前。いまはもう充分、首まわりを一周できるほどの長さになっている。
「器用だな、おまえ……」背凭れのある椅子に逆さまに腰かけて、テッドは細かく動くその手先を見つめた。
「ありがとう？」と呟きながらラズロの手は止まらない。
　べつに明日の朝までにと言われたわけでもないのに、この熱心さはどういうことなんだろう。
「なあ」とテッドはぼんやりと口をひらいた。「正直なところ、おまえ、ティルのことはどう思ってるんだ？」
「おまんじゅう、くれる」
「ああ、そう」
　もう、こいつは饅頭をくれるやつになら誰にでも奉仕するんじゃないか。
　そこでラズロが手を止め、テッドのほうへと目をあげてきた。「なんで、急に」
「ふっと疑問に思っただけだ」テッドは坐りなおしながらテーブルの上に残っていた饅頭を手に取った。「ちなみにおまえ、恋とかしたことあるのか。もしくは、ちょっといっしょにいたいなとか思う相手」
「いる」
「はあ!?」
　思いきり口をあけて饅頭にかじりつこうとしたところで、テッドはそのまま驚愕の声をあげてしまった。
「………」例によってラズロは無表情に青い目でじっとこちらを見つめてくる。
　うっ……すまん、我ながらひどい反応だとは思う。けどさあ……てっきり無言で俯くか、興味ないとでもいった仕種をするかと思っていたのに。
　テッドはわずかに眉を寄せた。「……俺の知ってるやつ？」
　ラズロは、うーんと少し考えてから小首を傾げたものだ。そして――
「テオさん？」
　ごん。
　テッドはテーブルにおでこをぶつけたまま顔をあげられなかった。
「……おまえ、思いきり年上好みかよ」
　テッドの呟きに、ラズロはまた反対側へと、今度は大きく首を傾げた。「年下だと、思うけど」
「あ、そっか――いや、そうじゃなくて、なんで？」
「団長に、似てる。雰囲気」
「……どこの団長？」
「ガイエン海上騎士団」
　そういや、騎士団で教育受けてたんだっけ。ラズリルにあったとか聞いたな。もう、あそこは独立したから、少なくとも名称は変わっているはずだけど。
「……で、その団長ってどんなやつだったんだ？」テッドはやっと身を起こし、饅頭を口に含んだ。
「騎士団に入れてくれて、鍛えてくれて、小間使いさせてくれて」ラズロは編みかけのマフラーを膝に、ぼうっと天井を振り仰いだ。
「………」小間使いというところが気になるが、まあ、世話になった恩師ということだろう。親兄弟の顔も知らない孤児のラズロのこと、その団長に父親の影でも重ねていたんだろうか。
　ラズロはゆっくりと視線を膝の上に落とした。「なんにも残さずに、消えてしまった……」
「そうか……」テッドもつられて目をおろし、かじりかけの饅頭のなか、うぐいす餡の緑色を見つめた。
　継承者にとって死別はついてまわる呪いのひとつだ。こればかりは、どうあがいても……。
　ゆっくりとラズロの腕が動き、右手で左の甲を覆うように撫でた。
「もらった形見は、この罰紋だけ」
「前の継承者かよ！」
　そりゃ、なんにも残さずに消えるわ！
　まあ、思い入れはあるんだろうけどさ。それは恋じゃねえだろ、恋じゃ。
「とにかく……成就した恋はないのか」
　疲れた声でそう囁けば、ラズロはちょっとむっとしたように口を尖らせた。「テッドこそ」
「俺と張りあってどうする」テッドは残りの饅頭を口に放りこんだ。
「いないの」
「いるわけねえだろ！」
「なぜ？」
「なぜって……」テッドは右手をぶらぶらさせてみせる。「ソウルイーターのこと忘れてねえだろうな」
　ラズロは頷いた。「だから、これだけ時間が経っても、こうして話していられる」
　不老のことまで便利な特典扱いするなよ。「だったら、俺が愛だの恋だの考えられる立場じゃねえってことぐらい」
「そこまで、紋章使いこなしておいて」
「それとこれとは……違うだろ」
　自然と最後のほうは声が小さくなってしまった。違うわけじゃない。三百年もの時間があったのなら、いいかげん紋章の呪いに対してもひらきなおっていいんじゃないかと、ラズロはそう言っているんだろう。
　百五十年前の当時もそうだったが、こうして再会してからもこいつは、ことあるごとに俺の恐怖心を蹴り飛ばすような真似をしてくれる。紋章を向きあうその態度は本当に俺とは正反対なんだよな。
　思わず溜息をついたとき、ドアが軽くノックされ、返事を待たずにひらいた。ラズロの返事は遅いから、この家の者はみんなそうする。
　クレオが上半身を乗り出すようにしてドアと壁の隙間から顔を覗かせた。「おや、またテッド君、ラズロちゃんの部屋に入りこんで」
「う、いやまあ……そろそろ下宿に帰ろうと思ってたんですけど」テッドは慌てて立ちあがり、椅子を壁のほうへと引きずった。
　そのあいだにクレオは部屋に入ってきてラズロに話しかけている。
「テオさまが帰ってらしたのでな」と廊下のほうを指し示し、「客もひとりいるので、お茶の用意を頼めないかと」
　ラズロは編みものをテーブルに置くと、すぐさま立ちあがった。
「んじゃ、茶器を運ぶぐらいなら手伝っていくか」部屋を出る彼女に続きながら、テッドはなんとなく言った。「テオさまの顔を見るのも久しぶりだし」
　ラズロは厨房で手早くお茶と軽食のサンドイッチやチップスを拵えてしまうと、ふたつの盆に分けて茶の道具を載せ、ひとつをテッドに任せてきた。
　階段をあがって二階のサロンへ行けば、確かにテオが客人と向きあってソファに坐っている。
　軍装をしているものの、彼が連れてきた人物は明らかに女性。背の高い、艶やかな金の髪のすっきりとした鼻の美人だ。
　夕食も過ぎた時間に客を連れて帰ってきたというのに、酒ではなくお茶とはどういうことかと思ったけど、なるほど……とテッドはちらりとラズロの金茶頭を見やった。家政婦は無表情のまま淡々とテーブルに茶器を置いていく。
「紹介しておこう、ラズロ、テッド君。これからたびたび、うちに来ることもあるだろうから」とテオが婦人を指し示しながら声をかけた。「ソニア、ティルの友人のテッド君だ。それからラズロは家政婦(ハウスメイド)として働いてもらっているが、この家には執事がいないのでな。こうして直接用事を頼んでいる」
「そうですか」と金髪の美人はにっこりと微笑んだ。完璧な貴婦人の笑顔だ。「ソニア・シューレンだ。テオさまにはずいぶん世話になっている」
　演習の予定もないのにテオが夜帰ってこないときがあるのは、そういうことだったわけだ。明らかに身分の高い女性が、こんな時間に誘われて他人の家に来ることはまずない。よっぽど親しい間柄でなければ、こんなふうに紹介されることもないはずだった。テオは長いこと奥方を持たずにいたし、ソニアは若く美しく、そして大人の女性だ。テオが、「これからたびたび」と言ったところをみると、もう再婚の具体的な話が出てきてもおかしくないというところなんだろう。
「彼女の母が六将軍のひとりであった頃からのつきあいでな」とテオは機嫌よく、そして鷹揚に笑った。「家族と思ってくれてよいぞ」
「………」こくんとラズロは頷いた。
　家族と思え、か……見事に失恋確定だな。
　やれやれ。
　給仕を終えて廊下をとことこと歩いていくラズロの後ろ姿が、ちょっと寂しげに見えた。
　明日あたり、手編みのマフラーを巻いたティルといっしょに市場(いちば)に行って、毛ガニでも買ってきてやるか。

＊＊＊

　そして数日後。
「おまえ、今度はなにを夢見てるんだ」とテッドは金茶頭を見おろした。
　馬場のテッドの仕事場に差し入れといって昼飯を持ってきてくれたのはありがたいが、バスケットの中身は全部あんこの詰まった甘い饅頭。たぶん、通りむこうの宿屋で売ってるものを大量に買いこんでそのまま持ってきただけらしい。
　これが飯かよと突っこみたいところだが、ラズロはほわんと遠くの空を見つめて、どこかうっとりとしているのだ。
　仕方なくテッドがしぶしぶ饅頭を頬張りはじめた頃、ラズロがようやく反応した。
「なにをって？」
「ぼんやりしてるからよ」
「……恋した、みたい？」
「………」テッドは饅頭の中身を睨みつけた。今度は小倉あんだ。
　なあ、継承者の悲哀はどこに行ったんだよ？
　いくらもう呪いがないからって、気楽に恋しすぎだろ。
「……今度は誰だよ？」
「マリーさん」
　両手を合わせてまた空を仰ぐラズロといっしょに、テッドも溜息を抑えながら雲を見あげた。
「……パムさんを思い出すわけか」
「ん」
　パムというのは、かつての巨大船で饅頭屋の女将をやっていた女性だ。とはいえ、決して当時のラズロが彼女に惚れていたわけじゃない。むしろ、こいつが惚れこんでいたのは彼女の饅頭を作り出す手だった。だから、世話好きで恰幅のいい宿屋のマリーさんを見て彼女を思い出し、懐かしがっているというのも、ようするに……まるっきり、カニや饅頭と同レベルの感情。
　結局、このマクドール家の家政婦の恋なんて、そんなもんだってことだな。
　テッドはラズロの金茶頭をぽんぽんと叩き、おまえも食えよと饅頭を差し出してやった。