カメと介護人

「アズラッドさん……ついに」
「うむ……」
「ついにレベル40だね！」
「うむうむ」
　感動で涙まで浮かべてレベルアップを喜びあっているふたりを眺めながら、ゲオルグはマントの中で腕組みし、ぼうっと突っ立っていた。
　ここは滝壺と適当に呼ばれている場所だが、景色は妙に白い。靄でかすんでいるとか、どこかに温泉があるからとかいった白さではなく、どことなくこのあたり一帯が年老いて生彩をなくしたといった白さだ。いや、もちろん草は緑色だし、水もほんのり青色にも見えるが、とにかく色褪せた土地という印象なのだ。かたわらに立つ松の木も、くたびれて腰かけた爺さんのように曲がっている。
　そしてその景色の中で抱きあって飛び跳ねているふたり。
　そのうちのひとりは、まあ、老人だ。このくたびれた景色に妙に似合うほど立派に年月を経た人物である。むっつりと皺のかたまったような顔をして、長年重い本の詰まった荷物を背中に担いでいるために縮んでしまったといった背丈。ただ、モンスターと戦うときにもその大きな背嚢をおろさずにいるのだから、もしかしたらめちゃくちゃ元気な爺さんなのかもしれない。
　そしてその爺さんを背中の荷物ごと抱きしめ、感涙にまみれているのは見目麗しい高貴な少年だった。編みこみの銀の髪はきっちりと手入れされ、オレンジのマフラーを素肌に巻き、どこがどうなっているのかわからない複雑な衣装を腰に巻くようにして、ど派手な胸当てをし、肩から背中の肌を思いきりよく晒し、そして足にぴったりとレギンス、そのくせサンダル履き。
　それは現在、セラス湖に本拠を構えた叛乱軍の軍主――いや、自分から叛乱軍と言ってはならんのだったな。まあ、奪還軍とでもしておこうか。つまりは、ゴドウィンばかり国の利権を独り占めにするのは許さんと集まった貴族＆有力領主と、この恨み晴らさんではすまんと復讐に燃える平民たちの集まりである。それを束ね、頂点に立つのがこの高貴な少年だった。
　まあ、確かに高貴だ。このファレナ女王国唯一の王子ファルーシュ・ファレナス殿下だからな。もっとも王位継承権はないし、ゴドウィンの太陽宮強奪が起こるまで妹王女や女王騎士たちとピクニックに行くぐらいのことしかやってこなかった坊やだ。だが、それでもとにかく王子ではある。
　しかし、王子に生まれたにもかかわらず、故アルシュタート女王は蝶よ花よと息子を育て、父親のフェリドはファルーシュが幼い時分から海賊王にする夢を見て鍛えてきた。まあ、フェリドとしては、男がファレナの王位に就けない以上、将来は群島諸国にでも放り出して暴れさせるしかないと思ってのことだったのだろうがな。
　ようするに、「わはは、だらしがないぞ、それでも海賊王の血を引く俺の息子か」とフェリドには殴られ蹴られのスパルタ教育を施され、母親の女王には、「一日たりともお肌を乾燥させてはいけません」とある意味、エリート教育を施され、結果、少女と見まごうほどの美貌を持ち、ほっそりとした手足で優雅に一礼、かと思えば一撃必殺の三節棍で行く手に立ちふさがるものをことごとく薙ぎ倒すミラクル王子に育ったというわけだ。
　彼のこの数か月の所業といえば、ゴドウィンの太陽宮強奪のさい、幽世(かくりよ)の刺客を目につく限り撲殺してとっととソルファレナ脱出を成功させ、バロウズを陥れてその戦力をまるまるぶんどり、貴重なシンダル遺跡を勝手に動かしてヘイトリッド城砦を破壊、レルカーではうっかりオロクの甘言に乗るところだったが、馬鹿呼ばわりされてぶち切れ、巡回に来ただけといったザハークにやつあたり。山賊退治では、分け前をよこさなかったら本当に首を斬ったんじゃないかと冷や汗ものだったそうだ。もっとも山賊の件ではリオンのほうがぶち切れていたようだったから、本当にロイの首と胴体が離れる事態になっていたかもしれなかったのだろう。そういう意味では、王子の真の恐ろしさはその背後霊のリオンにあると言ってもいい。以後もロイは、リオンのことを気にして夜も眠れないでいるそうだ。
　いずれにしてもこの王子は、いまや盗賊王のごとき地位に昇りつめていた。見も知らぬ他人の家に堂々と押し入っては奥にある宝箱を勝手にあけ、通りすがりにはなにか食いものがないかと話しかけまわる始末。あまつさえモンスターを襲っては彼らの持っている装備を剥ぎ、紋章の欠片をコレクションし、それを紋章球に戻しては仲間たちに強引に宿させる。おかげでいま、ファルーシュ王子のみならず、リオンもアズラッドもドレインの紋章を宿している状態だ。特効薬や水の紋章に頼らず、いつでも元気いっぱい、吸血コウモリから逆に血をぶんどって、彼らはこの滝壺の奥へとずんずん進んできたところだった。
　ゲオルグは白くかすんだ景色のむこう、遠くに広がる空へと目を向けた。
　フェリド、我が親友よ、ファルーシュはもう、放っておいても逞しく生き延びる。さすがにおまえの息子だ。
　周囲の状況を視界の外にやっていたゲオルグの耳に、空の彼方からフェリドの豪快な笑い声が聞こえてきたような気がした。
　だが、実際にはそれはカエルの鳴き声だった。
　ケロケロと楽しげな両生類の声と、「ぐぉあ……」と老人が力尽きて倒れる音とが同時に起こり、すぐ次の瞬間には、すぱん、とカエルが一刀両断されたような音が続く。
「あっ、僕がとどめ刺そうと思っていたのに、さてはリオン、銅像のモデル権を狙っているな」
「わたしのほうが行動が早かっただけです」
　王子とその護衛（自称）がやりとりしているのを聞きながら、ゲオルグはさらに空の彼方を見つめるように片目を細めた。
「そういえば、あれっ？　アズラッドさん、どうしてレベル40なのにカエルにやられちゃうんだ」
「王子、いくらレベルが高くても、ＨＰ１のまま放置されていれば一撃死します」
「だって、いままでちゃんと生き返っていたじゃないか？」
「身代わり地蔵の数にも限度がありますよ」
「じゃあ、また装備させて」
「だめです、王子、予算がありません」
「きみはいつも、だめだめって言うばかりだね。身代わり地蔵がないなら身代わり如来を装備すればいいじゃないか」
　どすっ、がきん、ずがん。
　背後でなにが起こっているのかをゲオルグは理解したくなかった。
「予算がないって言ってんだろ、このボケ」と、どうやらリオンが勝ったらしい。妙にドスの利いた声が聞こえてきた。だが、それは一瞬で、すぐにいつもの付き人に徹した女王騎士見習いの声音に戻る。「だいたい、王子が指示されていないことばかりしようとするからです。ロードレイクの視察途中で外に出ようとしたり、ベルクートさんが医務室に運ばれていったってちゃんと聞いておきながら街の宿屋に行こうとしたり、真珠を売りたいからって、しつこくレインウォールに入ろうとしたりするから」
「変装したら、レインウォールにも入れると思うんだけどなあ」
「だめです、王子、レルカーでは船を降りた途端にばれたじゃありませんか」
「あれはカイルのせいだと思うんだけど」
「だいたい、そこまでして、どうしてレインウォールに入りたいんですか。真珠じゃなくたって、金銀をハウド村に売りつければ、ぼろ儲けできますよ」
「タヌキブタさんが」
「バロウズ卿がなにか？」
「軍旗を作ると言っていたんだ。本当に作ったのかどうか気になるじゃないか」
「もう、立派なものがあるでしょ」
「僕の旗本隊の旗も新しいのが必要だと思わないか？」
「ジョゼフィーヌさんの作ったふさふさ印の、どこが不満？」
「だって、上下逆さまに掲揚しても、誰も逆さまだって気がつかないし」
「そりゃ、ふさふさですもの」
「うん、ふさふさだもんね」
　ゲオルグは溜息を抑え、ふたりを振り返った。「とにかく、ご老人の手当てをしてやらないか？」
「あ……」
「そうでした、大丈夫ですか、アズラッドさん」
　だが、老人は背中の荷物が重いのか、手足をばたばたさせるだけで起きあがれないでいるらしい。
「しょうがないな、瞬きの紋章片でムラード先生でも呼ぶか」
「この場合、ゲッシュさんあたりを呼んで担がせたほうがいいかと」
　ふたりは仰向けに倒れている老人のわきでしゃがみこみ、共有袋の中をかきまわしはじめた。やがて王子がガラスのかけらのようなものを取り出し、それを発動させる。
　ぴかっと一瞬光ったのち、地面の上に横たわっていたアズラッドが消え、代わりにぽんと小さなビーバー族がうずくまっていたものだ。
「あれ、マルーン？」
「王子、なにやったんですか」
「ちょっと手が滑って……最近、コントローラーが調子悪いもんだから」とファルーシュは大きく顔をしかめる。「どうしよう、アズラッドさんを間違えて城に送っちゃった」
　それでは、なにもならんだろう。ゲオルグは瞑目し、ついに溜息をついた。
　彼らはこの滝壺にいるヌシを仲間にしようと、こんな色褪せた土地に踏みこんでいたはずなのだ。それはどうやら老齢のカメで、同年代の友人を募集しているらしく、アズラッドほどの爺さんを連れていかないと姿さえ見せてくれないという。
　一度はそのカメと話しあったファルーシュだが、どうもそのとき、アズラッドのレベルが20程度で王子の半分でしかなかったため、老人をないがしろにしおってと怒られたらしい。それからファルーシュはどんなときでもあの老人を連れ歩き、心臓発作を起こすんじゃないかと思われるほど激しい戦闘に参加させていた。それにしても、無理やりレベルあげをさせるのはないがしろにしているとは言わんのだろうか。
　そんなわけでアズラッド老はやっとレベル40となり、これでカメが仲間になってくれるとふたりで喜びあっていたというのに。
　その肝心の御老人を、城に送り返してしまっては元も子もない。
「……帰りますか」とリオンが冷めた目で王子を見つめた。
「待って待って、もしかしたらこの呼びつけたマルーンが老人に見えれば」
　指をさされたビーバー族は、状況がまだよくわかってはいなかっただろうが反射的に飛び跳ねたものだ。「見えるわけないだろ！」
　だが、ファルーシュは必死だ。「カメにビーバーの年齢がわかるはずもない」
「そこまでして老人ボケのカメを仲間にしたいのか、あんたは！」
「だって、はるばる我が国に来られる群島諸国の提督とその部下に、ファレナのカメはこんなにうまいですよってご馳走してあげたいじゃないか」
「仲間にするんじゃないのか!?」
　大きな足でぺたぺたと足踏みする毛玉を見おろし、ファルーシュは、あれ？　と目的を見失ったように困惑していた。
　……まあ、さすがに仲間か食糧かと決断を迫られるのなら、仲間にしておいたほうがいいんじゃないかとは思うがな。
　ゲオルグはおもむろに王子の肩に手を置いた。「言っておくがファルーシュ、群島諸国はそこまで手ぬるい国ではない」
　ファルーシュはまばたきながら顔をあげる。「カメぐらいじゃ満足しない？」
「うむ」とゲオルグは重々しく頷いてみせた。
　群島諸国では連れ歩けるぐらいの大きさのモンスターなど歯牙にもかけないだろう。それ以上に巨大な生物が海にはごろごろと棲息しているのだ。中でも巨大ガニやリヴァイアサンといった竜の存在は赤月帝国にさえ伝わっているほど。そしてそれらを日常の食糧としている群島人のことは……じつはあまり伝わっていない。なぜなら、群島諸国に旅行した知人たちはそろって青ざめ、目を逸らして語りたがらなくなるからだ。
　俺はうっかりフェリドと友達になってしまったしな。群島人の実態をさわり程度には理解しているほうだろう。
　そしてファレナ女王国でも、隣国でありながら群島諸国のことはあまり詳細が伝えられていないようだった。
「手土産がないと、なんだか落ちつかないんだよね」とファルーシュも初めての外交に慎重な様子。
　やがて彼は足もとのビーバーをきらきらとした目で見おろした。「じゃあ、マルーンのこの毛並みをきれいに洗濯して――」
「俺を人身御供にするんじゃねえ！」
「ビーバーなんだから人身御供にはならないんじゃないですか？」と冷静にリオン。
　主君の暴挙を止めるにしても突っこみどころがちょっとずれているんじゃないかと、ゲオルグはまた逃避の視線を横手に放った。
　ざあざあ、さらさらと、涼やかな滝がその先にある。
　そしてその滝壺の手前、浅瀬になった川の中に黒々とした大きな岩がどんと置かれていた。
「妙なところに岩があるな」と思わず呟いたゲオルグだ。
　その言葉にファルーシュが振り返った。「――あれ？」
「ゲンオウさん？」とリオンもまばたく。
　マルーンも王子の足のあいだから滝のほうを覗き見た。「もしかして、あれが長老のおやっさんが見たっていうヌシ？」
　ファルーシュが頷いた。
　よくよく見ればそれは岩ではなく、でかいカメの黒い甲羅だった。水面の境界からひょこりと白い髭を生やしたカメの頭が突き出され、それはどこか気持ちよさそうにゆらゆらと揺れている。
「アズラッドさんがいると思って出てきたんでしょうか？」リオンが呟いた。「初めて会ったときから、おっちょこちょいだとは思ってましたけど」
　確かに、老人がいなければ会えないと聞いていたにもかかわらず、いま現在、ここにいるのは平均十六、七歳というところ――ゲオルグは自分のことは除外した――。同年代の友達募集をしている引きこもりのカメが、挨拶に来るはずもなかろうに。
　彼らはそろそろと慎重に近づいていった。
　カメはしかし、近づいてくる彼らには気づいていないようで、うっとりと目を細め、ほうっと気持ちよさげな溜息を繰り返しているばかりだ。
　ファルーシュは川の中州のほうまで続いている跳び石を伝い歩いていき、おずおずと手を伸ばした。「ええと、ゲンオウさん？」
「王子、気をつけて！」とリオンが長巻をすらりと抜き放つ。
　そして、「気をつ」ぐらいのタイミングで、カメの背後、甲羅の陰へと問答無用で斬りつけたのだ。まあ、それがリオンというものだ。
　振りおろされる刃物。だが、それを向けられた人物――ゲンオウの甲羅の陰に立っていたらしい――はくるりと鮮やかにかわすと、リオンの顔面にまっすぐ足裏を当て、そのまま蹴り飛ばしたのである。
　さすがにゲオルグも目を見ひらき、すっ飛んできたリオンを身を屈めて避けた。彼女は背後の滝壺の中に落ち、結構、大きな水柱を立てたようだ。
　しかし、リオンはあれで幽世出身、そのうえ幼少の頃からファルーシュとともにフェリドの教育を受けてきたはずなのだ。それを蹴りひとつであっさり返り討ちにするとは。
　ファルーシュも驚いているようで、ぽかんと口をあけてリオンを撃退したその人物を見つめていた。
　そこにいたのは金茶の髪を赤いリボンでまとめた黒いワンピース姿の少女だった。腰には剣。いや、左右に同じ長さの剣を佩いている。そして肩から斜めに掛けて、ずた袋のような鞄をぶら下げていた。
　彼女は無表情に大きな青い目で一同をざっと見まわすと、剣の柄(つか)にかけていた手を外し、濡れたタオルを両手に持ちなおしてマイペースにカメの甲羅をごしごしとやりはじめたのである。
「ふぅう……」と老カメが気持ちよさそうに唸った。
　それをちらりと見てから、ファルーシュが一歩前に出る。「きみ……なにしてるの」
　ごしごしと変わらぬ速度で甲羅を磨きながら彼女は答えた。「介護派遣」
「介護……」とマルーンがゲオルグの足にしがみつきながら呟く。「まあ、確かに必要だろうとは思うけど」
　びしょ濡れではあったものの、何事もなかったかのようにリオンがファルーシュの横に立った。「よくゲンオウさんと接触できましたね」
「ん」と少女介護人は頷く。「若い人は、このカメの世話ができないから」
「そうなんですよね、この高齢化社会、七十歳の息子が九十歳の母親の介護をするご時世」
「どこの世界の話だ」ゲオルグは思わず突っこんだ。
　だが、ちょっと待て。若い者はこのカメの世話ができない。むろんだ。このカメは老人の前にしか姿を見せんのだからな。とすると……。
　まさかとゲオルグが介護人を見つめなおしたとき、その横でゲンオウが盛大に鼻息を洩らした。おかげでゲオルグは、ちょっとばかり風に煽られて川の中へと落ちる。リオンのように滝壺にまで飛ばされたなかっただけましか。
「甲羅を洗ってもらうのは気持ちがええのう……」と老カメは満足げだ。
「あと、かゆいところは」介護人が無表情に訊ねた。
「ちと、尻尾のほうが」
「ん」
　濡れタオルをしまい、今度はマッサージするかのように素手で尻尾をこすりはじめた少女。それを見つめながら、ファルーシュたちはその作業が終わるまでしばらく待つことにしたようだった。

＊＊＊

「クエストギルド？」
「そこに、依頼があった」
　少女介護人が掲げてみせたのは群島で使われている鮫皮紙のれっきとした契約書だった。

お祖父ちゃんをよろしく
依頼主：孫ガメ

僕はお父さんとお母さんを捜しに群島へ行かなくてはなりません。
でも、お祖父ちゃんのことがとっても心配です。
週二日でもいいですから、誰か訪問介護を引き受けてくれませんか。
資格はいりませんが、六十歳以上のかたでお願いします。

「祖父想いのいい孫ガメですね」とリオンが感じ入ったように頷く。
　ゲオルグはわずかに眉を寄せ、腕を組んだ。「高齢化社会、少子化も問題だな」
　そして誰も六十歳以上の記述に突っこんだりはしない。ファルーシュは読み飛ばしていたし、リオンは読まなかったことにしたし、マルーンはそもそも人間の文字が読めない。ゲオルグは気がつかなかった。
「でもさ」とマルーンが毛玉の身体をゆらゆらと揺らし、尻尾をぴこぴこさせながら呟いた。「この孫ガメの両親、つまり、このカメの子どもは群島でなにしてるんだい？」
「彼らは……」と少女介護人がわずかに目を伏せる。
「どうしたんだい？」とファルーシュもちょっと興味を持ったらしい。
　やがて彼女は、きっぱりと顔をあげた。「鍋になった」
「そんな……！」とリオンが目を瞠り、両手を口に当てる。
「群島人、なんという非道なことを……！」ファルーシュも拳を震わせ、沈痛な面持ちで俯く。
「いや、カメといえば鍋だろう」ゲオルグは突っこんだ。
　群島人のことだ。これだけでかいカメを見たら、即、カメ鍋と、それしか思い浮かばないに違いない。
　リオンが突然、はっと顔をあげた。「待ってください、それじゃこの孫ガメも、まさか同じ運命になっていたりしませんか」
　ファルーシュも、あ、と声をあげた。「そうか、孫ガメを連れ戻さなきゃ！」
　そして思いついたら即実行の王子は、くるりときびすを返し、それに合わせてリオンもくるりと王子のあとについていこうとする。
　だが、王子の首に巻かれていたオレンジのマフラーを、無表情な介護人がむんずと掴んだのだ。
　カエルの鳴き声のような悲鳴をあげてから、王子はマフラーを引っ張られたまま振り返る。「なに？」
　少女介護人は相変わらず無表情に王子へとまっすぐ青い目を据えた。
「群島の海は、弱肉強食」
「………」
　その静かな宣言に、一同はごくりと息を呑む。
　ただひとり、ファルーシュ王子だけはマフラーを引っ張られたまま、「それで？」ときょとんとした。
　少女介護人はやはり無表情におもむろに頷くものだ。「生き延びれば、孫ガメは世界最強のカメとして戻ってくる」
「なるほど」ファルーシュは、ぽんと手を打った。「戻ってきたところで勧誘すればいいのか。それまでは、このゲンオウを飼っておけばいいね」
　ファルーシュはぽんぽんとカメの甲羅を叩き、『仲間になった』のウィンドウが表示されるまでもなく連れていこうとした。そこでまた少女介護人が、はっしと王子のマフラーを掴む。
「なに？」もう慣れたのか、ファルーシュは平然と振り返る。
「明日に、して」
「なんで？」
「今日の仕事、まだ」と彼女は先ほどの契約書を掲げてみせる。
「じゃあ、終わるまで待つから――」
「待ってください、王子」とまたリオンの駄目出しだ。「エストライズでボズさんが二日ぐらい待ちぼうけを食らっています」
「そうだな」ゲオルグもさすがに同意した。「ボズはともかく、ぐずぐずしていると群島諸国連合がゴドウィン派についてしまいかねんぞ」
「ああ、それは問題だね」ファルーシュは頷いた。
　少女介護人がわずかに眉を寄せる。「群島諸国連合？」
「僕らはこれから、エストライズから外洋船に乗ってニルバ島まで行くつもりだったんだ」
「それがなぜこんな滝壺をうろうろしているかといえば、そのカメが原因なんだが」
「まったくです。みんな仲間にするまで手間暇のかかるのばかり。面倒臭いったらありゃしません。類は友を呼ぶって本当ですね、王子」
　ファルーシュはリオンを見つめて頷いた。リオンはファルーシュに、にっこり笑いかけて頷く。
　ゲオルグはさりげなく胸のあたりをさすりながら、俺はたしか、まだ仲間にはなっていなかったよな、と内心で確認していた。
「群島を、味方につけるの」少女介護人がぽつりと呟いた。
　ファルーシュは、「そうだよ」と彼女を振り返る。「ルクレティアが言ったんだ。ほかの国はともかく、群島諸国だけは敵にまわしちゃいけないって。あのルクレティアがそう言うんだから、よっぽど恐ろしい国なんだろう」
「確かに」妙に感慨をこめた声音で介護人は無表情のまま瞑目した。
「なあ、王子さん」とゲオルグの足もとでビーバーが退屈そうな唸り声を出した。「そのカメ、仲間にしたんだったら、おいらが城に連れてくから、とっととその物騒な群島へ出かけてこいって」
「いや」とファルーシュは首を振った。「仲間にしたら、まずはパーティに入れてステータスや固有紋章をチェックしないと」
　そのとおり、とリオンも頷く。「そして見た目どおり頑丈なカメだったら、真ん中に置いて盾にするんですね」
「それが戦術というものだ」ゲオルグはしみじみと言った。
　ようするに、仲間にしたばかりのメンバーはまず、すぐさま引きずって連れ歩くのが定石。たとえ武器レベルが１のままで役に立たなくてもだ。ゲオルグはちらりと自分の腰に佩いた剣を見おろした。この剣もまだ名称が風のまま。いつ月や雲と名づけてもらえることだろう。だが、ファルーシュは、ゲオルグは突っ立ってるだけでもパリングで役に立つからそのままでいいよと、にこやかに言ってくれたものだ。たぶん、正式に仲間になっていないパーティ参加者の武器を鍛えるなんて、そんなもったいないことできるわけないじゃないかというのが本音ではあろう。なにより、常に倹約していなければ王子は背後のリオンにどつかれてしまうのだ。
「というわけで」とファルーシュはきらりと王族特有の博愛精神に満ちた笑みを――スマイルだけはコスト０だからな――少女介護人に向けた。「きみも仲間にならない？」
「そうですね、ゲンオウさんには介護が必要らしいですし」とリオンも後押しする。
「週二日」とまた介護人は契約書を掲げた。
「週二日、通いでもいいよ」
「ゲオルグさんなんか、フレックスタイムシフトですし」
　まあな。好きなときに現われて強制パーティ加入、気楽といえば気楽な職場だ。
「そのつど装備させた防具を持ち逃げされるんだけど、まあ、そのことはいい」ファルーシュは軽く首を振ってから、また介護人に向きなおった。「だからきみも、週二日のパートタイム仲間ということで」
「わかった、週二日」
　ファルーシュは満足げに微笑んだ。「じゃあ、さっそくニルバまで来てくれるかい？　もちろんゲンオウといっしょに」
「ん」
「む？」とそれまでうとうと昼寝でもしていたのか、カメが頭をあげた。「はっ、なんだ、この若い者たちは」
「いままで気がつかなかったのか？」ゲオルグは苦笑を抑えた。
「年寄りがそばにいると思うて安心しとったわ」
「大丈夫」と介護人がぽんぽんと甲羅を叩いた。「これから、引っ越し」
「引っ越しじゃと」ゲンオウはカメ頭を傾げた。「老人ホームはいやじゃぞ」
「違います」とリオンが慌てて叫んだ。「お城です、立派な王子のお城！」
「じゃが、若い者ばかりじゃろう」
「お年寄りもいっぱいいるよ」ファルーシュは安心させるように微笑んだ。「アズラッドさんをはじめ、ラージャ提督――は、ぎりぎり五十代だっけ？　そうだ、タルゲイユさんが、たしか七十歳。あと、ビーバーの長老もいるし」
「ビーバー……」ゲンオウは埋もれた記憶を掘り起こすかのようにぼんやりと空を仰いだ。「おお、ちょこちょこと迷いこんできておったあやつか？」
「いや、たぶんその息子さん」
「はあ……もう、世代が交代しおったのか」
「それからコルネリオさんのドレミ楽団が、毎週、演奏会をひらいてくれます。まあ、まだドレミの精が三匹しかいませんからコンチェルトはできませんけどね」
「年寄りに1500ダメージはきついと思うんだが」ゲオルグは小声で突っこんだ。
「む……むむ、なかなか楽しそうじゃのう」ゲンオウは尻尾をうずうずさせながら皺だらけの頭をゆらゆらと揺らした。「じゃがのう……」
　また介護人がぽんぽんと甲羅を叩いた。「いっしょ」
「おう、そうか」ゲンオウは頷いた。「おぬしがいっしょならば心強い。年寄りいじめにも遭わずにすむじゃろう」
「誰もそんなことしないよ」とファルーシュ。
　すかさず、その背後でリオンが呟いた。「嘘つき」
　だが、王子にはどうやらその黒い呟きは聞こえなかったようだ。ファルーシュはきらきらとした笑顔で介護人と並んで甲羅をぽんぽん叩いた。「よろしく」
「で……」と相変わらずゲオルグの足もとにいたマルーンが木槌で少女介護人を指し示した。「こいつは誰？」
　ファルーシュはビーバーを見おろしてから彼女に向きなおった。「自己紹介がまだだったね。僕はファルーシュ。生まれながらの王子だよ」そして背後にいるリオンを振り返らずに指し示し、「こっちはリオン、またの名をミスマル。護衛なのか、付き人なのか、はたまた背後霊なのかわからないけど、いつも僕の後ろをついて走ってる」
「よろしく」とリオンは平然と頭を下げた。
「そっちはゲオルグ・プライム。僕の父さんの悪友で、二太刀いらずと言われるほどの剣豪。ただし、魔法も魔防もからっきし」
　少女の青い目がじっとゲオルグに注がれてきた。ゲオルグは腕組みしたまま彼女を見つめ返す。
　そしておもむろに彼女は肩から斜めに下げていたずた袋にも似た鞄に手を突っこみ、白い皿に載ったクリーム色の菓子を取り出したものだ。小さなフォークもちゃんとついている。
「む、レアチーズケーキか。しかもブルーベリーソース添えとは、かたじけない」ゲオルグはさっそくいただいた。
　ほくほくと甘いケーキを口にしているゲオルグの横で、ファルーシュは残るひとりの仲間の紹介をしていた。「この毛玉はマルーン」
「毛玉言うな、ビーバー族だっつってんだろ！」
「落ちついて」と少女は、今度は五十センチほどの丸太を取り出してビーバーに与えたものだ。
「てやんでい……うう、くそ」欲求不満の唸り声を出しながらカジカジを始めるマルーン。
「初対面の人の好物を的確に判断できるなんて、なかなか観察眼の鋭い人だね」ファルーシュはさらに満足そうに頷いた。彼女の鞄がどうなっているかについては彼はまったく気にしなかった。だいたい王子自身、ついこのあいだまでは塩の高騰がいつ始まってもいいように大量の塩を持ち歩いていたのだ。
　王子は右手を差し出した。「で、名前は？」
「ラズロ」
「よろしく、ラズロ」
　ファルーシュ王子とラズロという少女はしっかりと握手を交わしたのだった。

THE END.

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