１
「リノ・エン・クルデス号だ」
「はあ、でかい船……」
「というより、派手な船ですね」
ゲオルグが指し示した大型の群島諸国船を見あげ、ファルーシュとリオンはそれぞれ、ぽっかーんと口をあけていた。
ここは群島諸国の入口らしい小さな島ニルバ。海には境界線もなければ関所もないし、どこからが群島諸国で、どこからがファレナの領海なのかはよくわからない。だが、この島にはファレナの外洋船もたびたび行き来しているという。もっともファルーシュは、いま乗ってきたエルメラーク号のほかに海を渡るような船をファレナで見かけたことはないのだけれども。もちろん、こんな海の果てまで来たのは初めてのことだ。おかげで船酔いがひどい。リオンはもっと青い顔をしている。
島は港が大半かと思えるほど小さな町しかなく、高台には白い灯台がにょきっと生えていた。港に面した通りには軒並み宿屋があり、その前を行商人たちの露店がずらりと並んでいる。忙しく走りまわって働いているのはおそらく商人や船員たち。だが、それ以上にとんがり帽子の軍人らしい装いの男たちが目立った。
たぶん、その理由があのリノ・エン・クルデス号なのだろう。群島の守護神と異名を取るスカルド・イーガンの指揮する船であり、群島諸国連合艦隊の旗艦。当然、乗っている船員は全員軍人だ。
船体はエルメラークよりもひとまわりは大きく、リオンが派手だと言ったように全体的に白い船で、舷側にはぐるりと黄金の彩色がなされている。縁は海を表わすかのような鮮やかな青で、畳まれている帆は純白だろう。まあ、その帆に饅頭の絵でも描いてあったら、ちょっと引くかもしれない。
そうして見あげているうちにファルーシュはちょっと眩暈をおぼえたので、首を振りながら目線を下げた。まだ船酔いが残っているような気がする。もしかしたら陸酔いとかいうのかもしれない。
酔っていないらしいゲオルグが心底羨ましかった。こんなものは慣れだと彼は言うが、とてもではないが慣れるほど海の船に乗っていたくはない。河に比べれば流れもなにもない真っ平らな水たまりに思えるのに、なんであんなにとんでもなく揺れるんだろう。
ちらりとゲオルグのほうを見やれば、彼はやはり平然と腕組みして、いつものようにぼーっと突っ立ているだけだ。
そしてそのむこう、埠頭の端っこには大きなカメがうずくまっていた。結局、ゲンオウを仲間にしてそのままここまで連れてきてしまったわけだが、エルメラークに乗せるわけにもいかず、彼は自力で泳いできた。念のための命綱としてロープで船に繋がれていたのだが、どうもゲンオウは、広々とした海原で泳げたことが嬉しかったらしい。介護人のラズロにロープを取ってもらい、甲羅に溜まった海水をせっせと雑巾で拭ってもらうあいだ、とても上機嫌だった。
やっぱりカメは泳ぐもんだよね。陸でのそのそ歩くより断然速かったもん。戦争でも水上戦で活躍してもらえないだろうか。
いや、やはり老人を戦争にというのは……そういえば、ほかにもご老人がいたよね。タルゲイユさんにサイロウ爺ちゃん、シルヴァさんも結構、年だし、ラージャ提督も本来ならとっくに引退している人のはず。このあいだはフワラフワルさんまで本拠地に……なんで僕の軍には、こんなに老人が多いんだろう。っていうか、その人たち、平気で出陣していたような気がする。
そのうちシルバー部隊でも編成してみようかとファルーシュが考えはじめたとき、埠頭の石畳の上をどっかどっかと歩いてくる人物がいた。
臙脂色のマントを羽織り、肩当ては金色、白髪の混じった六十歳前後の巨漢だ。
彼はのっそりとファルーシュの前に聳え立った。
「これはこれは、ようこそ、ファルーシュ王子殿下、リオンどのゲオルグどの。群島諸国連合艦隊を預かっておりますスカルド・イーガンです」
声は野太いが、外見の印象とは裏腹にその言葉の調子は柔らかかった。
だが、でかい。
ファルーシュは、ぽっかーんとしたまま、「はじめまして」とぼんやり返した。横にいるリオンも、なんじゃこりゃといった目で提督を見あげている。
スカルド・イーガンが愉快そうに笑いながら王子殿下はさすがだとかなんとか言っていたようだったが、ファルーシュはろくに聞いていなかった。とにかく、でかい。どうでもいいが、でかい。
海に住むモンスターは大きなものが多いと聞いていたが、人間もでかいもんだなあなどとファルーシュは妙な感心をしていたものだ。
そういえば、群島諸国生まれの父上もでかかった。なんていうか、身長とか体重とかじゃなくて……長身のザハークと並んでいても父上のほうがでかいように感じていたものだ。僕は母親似だと言われているけど、どうなんだろう。将来、父上のようなどっしりとした男になるんだろうか。そうなるとちょっと困る。女装ができなくなるじゃないか。
「殿下はお母上によく似ておられる」
不意に聞き流していたはずの提督の声が耳に飛びこんできて、ファルーシュは彼に向きなおった。
……そうか、まずは当面、安心しておこう。僕は母親似なんだ。うん。
思わず内心で自分に言い聞かせ、頷いたファルーシュだった。
するとなにを勘違いしたか、提督はその大きな手のひらをファルーシュの頭に載せようとしてきたのだ。
横にいるリオンがぞくりとするような鬼気を発し、そのあとすぐ、触れたら最後、斬る、といった静かなオーラへと転換する。そして右手はしっかり腰の長巻の位置だ。
だが、リオンがそれを抜くことはなかった。提督は手が触れる寸前でぴたりと動きを止め、わずかに目を細めて視線を横にずらしたのだ。
その先には、もぞもぞとご機嫌に首をまわしているゲンオウがいた。
「カメ……」と提督はぼんやりと呟いた。
「ええと、あれは――」
仲間のゲンオウさんですと紹介しようとしたが、提督はじっとカメを見据えながら、そのままずんずんとそちらへ行ってしまった。そのぎらぎらとした眼光を放つ双眸は、まるで品定めをするような、あるいは獲物を見つけた鷹のよう。
「王子……」とリオンが眉を寄せた。「あれ、まずいんじゃありません？」
「えっ」ファルーシュは思わず彼女を振り返った。「ゲンオウさんて、まずいの？」
「そうじゃなくて」
ゲオルグが頷いた。「いまスカルドは、あのカメを獲物にしていいものかどうか考えあぐねているというところだろう」
「よくわかるね」ファルーシュはゲオルグを振り返った。
「まあな」と隻眼の剣士はむっつりと頷く。
スカルド・イーガンは鋭い目をカメに注いだまま、その甲羅をぐるりとまわりこむように移動していた。
と、そのイーガンと同じ方向に、そして反対側を、カメの甲羅をマッサージするふりをしているような按配でラズロがぐるりとまわってきたのである。
「あ、そういえば、あの介護人さんもいましたね」リオンがいままで忘れていたとばかりに手を打った。
「さすがに彼女の前では、ゲンオウさんを鍋にするわけにいかないよね」ファルーシュはぼんやりと呟く。
「どうかな、あの介護人も正体が知れん」
「得体の知れなさなら、ゲオルグさんも似たようなものでしょう」リオンが辛辣に指摘する。
イーガン提督は時計まわりに、二百六十度ほどカメのまわりをまわってから立ち止まった。ラズロも立ち止まってしゃがみこみ、ちょうどそこにあったゲンオウの前脚をごしごしとマッサージする。
やがて提督は、今度は反時計まわりに戻りはじめた。ラズロも反時計まわりに移動する。
「………」
「………」
イーガン提督が止まればラズロも止まる。動き出せば同じ速度で反対側を移動する。わざとやっているのか、それとも偶然か……いずれにしてもイーガンの目はカメに据えられ、ラズロは無表情。ちなみにゲンオウは、相変わらず気持ちよさそうにうとうと首を振っているだけだ。
ファルーシュは首を傾げた。「なんだろう？」
「さあ？」とリオンも同じ方向に首を傾げる。
そのとき、「提督！」と女性の声がした。
じっとカメの甲羅を睨みつけていたスカルド・イーガンは、ちっと小さく舌打ちしてきびすを返してくる。そのむこうでは、カメの甲羅に隠れるようにして金茶頭がちょこっと覗いていた。
そしてファルーシュの背後、振り返れば亜麻色の髪をおさげにした二十歳ごろの女性士官が立っていたものだ。彼女はむっつりとした顔で、どうやら提督を睨みつけている様子。「提督、こちらへお急ぎください」
「わかった、すぐ行く」面倒臭げに軽く手を振ると、提督は通りすぎざまファルーシュに目を向けてきた。「申しわけありませんが、殿下、少々立てこんでおりましてな」
「ああ、はい」ファルーシュはまた提督を見あげた。
「なぜここへおいでになったかは、だいたいわかっておりますが、そのお話はのちほどゆっくりと」
そういえば、ええと、なんでここに来たんだっけ？ 群島名物の饅頭を食べに――じゃなくて……そういえばカニも名物だって話だ。特にカニ鍋。うん、カメじゃなくてカニ……いや、違うよ。食道楽ツァーに来たわけじゃない。
そんなふうにファルーシュが記憶を掘り起こしているあいだに、提督と女性士官はとっとと埠頭を歩き去り、街の奥へと続く石段をのぼっていってしまった。
その頃になってやっとファルーシュは手を叩く。「そうだ、群島諸国連合を味方につけるんだった」
「少なくとも敵にまわすなということなんだが」ゲオルグが訂正した。「味方にしたら最後……いや、やめておこう」
「とにかく」とリオンが口を挟んだ。「いったん宿を取っておきましょう。なにが立てこんでいるのか知りませんけど、どのくらいかかるかわかりませんし」
「そうだね」ファルーシュは頷いてから大きなカメを振り返った。「でも、ゲンオウさんは宿に入りきらないんじゃないかな」
「そこらへんの海で泳いでいてもらったら？」
リオンのぞんざいな意見にかぶさって、ゲンオウの、「ほうほう」と機嫌のいい声が漂ってきた。「久しぶりの人間の街じゃのう」
「いや、エストライズも通ってきただろう」というゲオルグの突っこみは、しかし、ご老人の耳には届いていなかった。
「なかなか面白いものがありそうじゃ。散歩にもちょうどよい」と老カメは、のしのしとファルーシュの眼前を通りすぎていく。
「えー」とリオンが大きく顔をしかめた。「その図体で街の中を歩くんですか」
カメの甲羅をぽんぽんと叩きながら、ラズロがゆっくりと頷いた。「介助は、する」
「そういう意味じゃなくて」
「ほれ行こう、すぐ行こう」とゲンオウばかりが張りきっている。「綿飴を買っておくれ。海老せんべいも欲しいのう」
「海老は、おいしい」
のっそり、のったり、よっこいしょと港を横断しはじめたカメを見送り、ゲオルグが溜息をついた。「あの介護人がついていれば、あの老カメも鍋になる危険はなかろう。こちらはとりあえず宿へ行くか」
「まあ……そうだね」ファルーシュは頷いた。