前篇
「あれ？ ここ、ヤールの部屋じゃなかったっけ？」
その声に振り返れば、部屋のドアを押しあけたままの姿勢で黒い髪に金色の目の青年がそこに立っていた。
ファルーシュはリオンとともに宿屋の個室の小さなテーブルをかこんで坐っており、交易品のリストを作成していたところ。
このニルバ島を再訪し、ビーバーロッジでしこたま仕入れていた米を一気に売り払ってみたら、新たな交易品として酒を取り引きできるようになったのだ。しかし、この酒という品目はファルーシュもリオンも扱うのは初めて。どの街でどれだけの相場で取り引きできるだろうかと、意見を交わしていたところだったのだ。
むろん、彼らはふたりだけでこの島に来たわけではない。いちおう群島人三人を連れてきていたが、彼らは現在、群島名物のサバの味噌煮を買いだしに出かけていた。いま扉にいる黒髪の青年は、そのほんのわずかな時間のあいだにやってきたのだ。
ファルーシュはペンを持ったまま、首だけを部屋の出口に向けて頷いてみせる。「ヤールもこの部屋に泊まりますけど」
部屋の番号を確かめたつもりか、黒髪の青年はいったん身を引いてドアの表側を見やり、間違いないとでもいうように頷きながら部屋に入ってくる。「きみは？」
「ファルーシュといいます」
「ああ、ファレナの王子さま」と彼は金色の目をかすかに細める。
やっぱり僕は有名人なのかな。ここはニルバ島だっていうのに、どうして名前を言っただけで素性を言い当てられるんだろう。
隣でリオンが油断なく長巻に手をやりながらゆっくりと立ちあがる。
だが、彼女の剣呑な視線を受けているにもかかわらず、黒髪の青年はあどけないといった仕種で首を傾げた。「じゃあ、なに、特務(うち)の連中、ファレナに滞在してるの」
「うち？」
相関図がよくわからずに眉を寄せてみせれば、黒髪の青年はかすかに笑った。「ああ、ごめん、ぼくはキリル。いちおう、ヤールの上司のひとりなんだけど」
「は？」
リオンといっしょにきょとんと声をあげてしまったのは当然だろう。上司だと言った青年はどう見ても二十歳前後、ファルーシュの仲間になったヤールという青年はもっと年上だ。まあ、ベルナデットさんなど、提督のご息女ともなればヤールとて礼を取るかもしれないが。
ともあれ、そのとき、一瞬の間(ま)の抜けた空気ごとドアを蹴破るようにして話題の主(ぬし)が帰ってきたものだ。
「殿下、サバの味噌煮を――げっ！」
ヤールは油紙に包まれた土産らしいものを片手に軽く掲げながら上機嫌に入室してきたのだが、その手にしたものを握りつぶすような勢いでぎくりとし、ドアを背中で押さえるようにして半歩よろめいた。
その上司を胡乱げに見つめながらその後ろでネリスが首を傾げる。無表情な美女はやはり静かに視線を移し、部屋の中の状況をざっと観察したらしい。
やがて、わずかに眉を寄せた。「ボス？」
「やあ」キリルという青年が軽く片手をあげる。「船の墓場の件、報告サボったでしょ」
「ああう……」ヤールはいまだにドアと壁に張りつきながら冷や汗をかいているようだ。「いやあ、任務終わったなんて言ったら、また別の捜索任務が来るかと」
キリルはきょとんと首を傾げた。「ファレナの王子軍に協力したいなら、その旨、ぼくのところに知らせてくれればよかったんだよ。ぼくも喜んで参加したのに」
「それがやばいんですって」とヤールは横の壁に向かって呟いた。
その彼を片眉をあげるようにして、キリルがじっと睨みつける。「とにかく、紋章砲の有無だけでも知らせてほしかったな」
「あー」ぽりぽり頭をかきながらヤールは上司に向きなおった。「それがですね、ボス。船の墓場の紋章砲は、こちらの王子さまがたの協力を得まして無事破壊しました」
ファルーシュとリオンを指し示すようにしたヤールの横で、ネリスがゆっくりと頷く。「回収はできませんでしたが」
「回収はべつにいいけど」とキリル。「でも、本当に破壊できたの？」
「はい」ネリスは無表情に、しかし、きっぱりと答える。
「どうやって？」
「地道にペンチとドライバーで」
そういえば、あの大砲を使ったあと、結構、時間をかけて解体したもんだよね。もちろんヤールひとりで。
「……なるほど」とやがてキリルが頷き、「砲弾は？」と続けて確認するような目を部下たちに向ける。
「残っていた様子はなかったですけど」
そうして群島人たちは王子とリオンを蚊帳の外に置いて、なにやかやと続けて任務の確認だか仕事の手順だかをぼそぼそ話しはじめた。
べつに僕たちは構わないけど、秘密なら秘密で、別の部屋なりロビーなり行って話せばいいのに。
そんなことを考えながら、ファルーシュはリオンとともに再びこの交易でかかった費用の計算に取りかかった。
ところで、このニルバ島を再訪するさい、いっしょに連れてきた仲間はヤールとネリスだけではない。入港手続きやらなにやら面倒なことを押しつけるため、この島を訪れるときには大抵、ベルナデットも同行しているのだ。さすがに連合艦隊の士官だった彼女は、どれだけ港が混んでいようとも特権を利用してエルメラーク号が碇泊できる場所を確保してくれる。彼女はいま、その船の整備状況と出航の日時を確認しに行っていた。
そしてまたタイミングよく、その彼女がただでさえ混雑した部屋に入ったきたものだ。
「王子さま、いつまでニルバ島に――うっ!?」
ほとんどヤールと同じような反応をしてベルナデットも戸口で凍りつく。
キリルは肩越しに彼女を振り返り、再び挨拶代わりに手を振った。「ベルちゃんもいたんだね」
「ベルちゃんはやめてください」素早く呟いてから、ベルナデットは咳払いした。「なにしてるんですか、キリルさま」
キリルさま？
オベル王国の名家、イーガン家の末娘として生まれたベルナデットには、役職以外の敬称をつけてそう呼ぶ人はほとんどいない。ファレナの王子であるファルーシュとオベルの斎主（らしい？）ラズロを姫さまと呼ぶ程度だ。それもたまに野良だの、金茶頭の海賊だの、いろいろ呼称が変わる。また、連合艦隊内の地位を考えてもスカルド・イーガンの副官を務めていた彼女だ。
つまり、このキリルという人はベルナデットよりも立場が上なのか、それとも身分が上なのか。
ファルーシュはつい興味を持ってしまい、経費の合計を出すのも中途のまま、群島人たちのやりとりを聞き拾うことに全神経を尖らせたものだ。
キリルはヤールとネリスをゆっくりと見まわし、ベルナデットに微笑んだ。「うちの不肖の部下どもが報告をサボるから、ぼくがわざわざここまで」
「ヤール……」とベルナデットが青年にしかめつらを向ける。
特務の調査員は慌てて両手をあげた。「連合艦隊のほうへはちゃんと報告あげてますよ。こっちは、いわば裏組織みたいなもんでしょ」
「う、裏!?」思わずファルーシュは、ペンをぱきんと折ってしまった。
その声を聞き拾ったか、ベルナデットがこちらに目を向け、「あ、部外者がいた」というようにまばたいた。
「すみません、殿下の御前で見苦しい真似を」とベルナデットはさすがに頭を下げてくる。
そんなふうに言われると、ファルーシュは、「べつにいいんだけど」と言うしかない。「裏ってなに？ このキリルさんて幽世(かくりよ)みたいなもの？」
「まさか」とヤール。
「かくりよって？」とキリル。
「ボスは知らなくてよろしい」ネリスが釘を刺すように鋭く言った。「へたに説明すると、面白そうだからってあの組織に徒弟入門しかねませんから」
「きみ、ぼくをなんだと思ってるの」
「妖怪」
途端に、キリルがにっこりと微笑んだ。まるで仏さま。
そしてヤールとネリスは、その場で時間が止まったようにかたまったものだ。
そのふたりを背にして、ベルナデットが気にするなと手を振った。
「特務班は二種類の司令系統に抑えられてるんです」と彼女は先刻の話に戻そうとでもいうように説明してくれる。「連合艦隊提督――つまり、親父さまを頭にした正規の艦隊組織と」
「僕みたいに洋上会議認可の調査組織」とキリルが仏さまの笑みのままファルーシュに目を向けてきた。
「回収封印するのが目的か、破壊殲滅が目的かの違いですが」とネリス。
その背後で、ヤールがぼそっと囁く。「言っておきますけど、ボスは本来、俺らに命令できる立場じゃありません」
「でも、ちゃんと言うこと聞くし、ね？」と部下を振り返って、また微笑むキリルさま。
「聞かなかったらどうなるか……」ヤールはネリスとともに横手の壁へと目を向けた。
なるほど、それでヤールは連合艦隊のほうの仕事がいいかげんになるんだな。