根性丸

　ここは群島諸国というらしい。海の中にぽつぽつと島があって、それぞれの島はひとつひとつの国だ。
　そしてただいま独立戦争ど真ん中。
　まあ、独立といったって、もともとは大陸の趨勢なんかなんのこっちゃって感じで暮らしていたのんびり屋の島国ばかりなんだ。近年、クールークやらガイエンやらがやたらと海に出てきては、島のものや人間をぶんどっていくわ、勝手に植民地宣言するわで、特にクールークの侵攻が目立ってきたところ。そのうえ、クレイ商会やらいう人身売買や人魚の密漁までやってる武器商人がその皇国と手を組んじまった。
　海賊たちは我がもの顔で海を荒らしまわるクレイ商会が気に入らねえし、オベル王国はクールーク軍に占領されちまった。最北のイルヤ島はどでかい紋章砲で壊滅させられ、廃墟になってしまっている。さすがに群島連中も、ちょいと頭来たぜって感じで立ちあがったらしいんだがな。
　だが、なにしろ、ちっちゃい島があるだけのなんにもない海の世界。軍隊なんてオベル王国ぐらいしか持ってねえ。
　ということで、オベルの残存兵と海賊が手を組んで、ついでに戦力になる船やら人員やらかき集めてできたのが群島諸国連合軍ってわけだよ。
　連合軍と立派に名乗りあげちゃいるが、寄せ集めには違いない。なにしろ、その連合軍を率いる軍主からして十六歳のガキとくる。長年、赤月帝国と渉りあってるようなクールーク軍相手に、こんな海賊集団で本当に勝てるのかって普通は疑問に思うだろうがよ。旗艦にはちゃんとオベル国王も乗っているというのに、なに考えてあんなガキに絶対的な指揮権与えたんだろう。
　しかもこの軍主――ラズロってガキは、めちゃくちゃ不愛想で無口。口をひらいたかと思えば単語しかそこから出てこない。ちゃんと構文作って話せと怒鳴りつけてみりゃ、三人称でしか文にできねえんだ、こいつ。当然、会話になんかなりゃしねえ。
　本人もそれがわかっていて、余計に無口にになるんだろうな。
　けどよ、ノックはできるだろ。
「なんで人の部屋のドアを、いきなり蹴りあけやがるんだ、おまえは！」
　蝶番の外れかかったドアを押さえてそこに立っているのは、金に近い茶色の髪を赤い鉢巻で押さえた青い目の少年。無表情でじっとこちらを見つめてくるもんだから、睨んでるとしか思えないんだよな。よくよく見れば可愛い顔をしているんだが。
　とにかく、そうして怒鳴りつけた俺のほうをしばらくじっと睨んでいたかと思えば、「……遅刻」とたったひとことだけだ。
　いったいなにが言いたいんだって、訊ねなおしていたのは最初の数日だけ。俺も大概、慣れたもんさ。またぞろ、知らないうちに俺が当番に組みこまれていたんだろう。昨日、連絡のメモもドアに挟んであったしな。読んでねえけど。
「俺に当直を振るなっつったろうが！」
「遅刻三回、吊るす」
「だから、人と関わりたくねえって何回言ったらわかる。お節介なおしゃべり群島人といっしょになって、明るく楽しい職場でお仕事なんかできるかよ！」
　ラズロはそこでおもむろに腕を組み、さらにこちらを睨みつけてきた。
　そして、「ヘルガ」とまたひとことだけ。
　その途端、どんと船が揺れるんじゃないかってぐらい思いっきり足を踏み出して室内に入ってきた女。
　背は低いが力自慢のこの女、じつはこの軍主の親衛隊だったりするものだから始末に負えねえ。軍主命令は絶対、こっちがなにを訴えようと取りあいやしねえ。
　そうして俺がヘルガにシーツでぐるぐる巻きにされて担ぎあげられるまで、ラズロは腕を組んだまま静かに見ていたものだ。
　ちくしょうめ。
「俺に構うなあああ！」

＊＊＊

　軍主同様の無表情がこちらを見あげてくる。
　キカは片手に腰を当て、長いことそのままじっとしていたかと思うと、おもむろに溜息をついた。
「また吊るされているのか、懲りないやつだな」
「うるせえ……」テッドは足を振りまわす元気もなく、ぶら下がったままぶつぶつと返した。
　キカは軽く首を傾げ、マストの根もとにいたケネスという妙に律義な男へと目を向ける。「元気がなくなってきているようだが」
　ケネスは手のひらの上に置いた方位磁石をじっと眺めたまま頷いた。「塩水でもやっておきましょうか」
「俺は人魚じゃねえ！」
「あいにくラズロは、海から拾った仲間はみんな人魚だと思っている」ケネスはまた頷いてから、方位磁石をぱちんと閉めてポケットに突っこんだ。「おかげでシラミネさんも人魚扱い」
「ふんどし一丁の人魚は珍しいからな」キカが抑揚の変わらない声で呟いた。
　この女海賊、もしかして冗談を言ったのか？
　ケネスの脳裏にもおそらくその疑問がよぎったのだろう、キカのほうをやや時間をかけて見つめてから諦めたように首を振ったものだ。
「だから――」テッドは身体を揺すった。その途端に船まで揺れて、ごんとヤードの端に頭がぶつかる。「ちくしょう――だから、勝手に仲間認定するんじゃねえって言ってるんだよ、俺はこの船を降りるつもりなんだから」
　キカがまた無表情にテッドを振り仰いできた。「いつになるか」
「なんだそりゃ」
「おい」とケネスがマストの根もとのロープをいじりながら叫んできた。「時間だ、おろすからな」
「お、おう……」
　罰則とはいえ、決められた時間どおりに終わらせてくれるのはありがたいけどよ。そしてあの無愛想軍主、こういう見張りの役はやたら律義なやつに任せるんだよな。しかも脅しにも泣き落としにも屈しない、こういうケネスみたいな頑固なやつにさ。ただのガキのように見えて、そのあたり、あの軍主はちゃんと仲間の性格を見ているというわけだが。
　からんと滑車のまわる音がかすかにしたと思うと、テッドはいきなりの落下感覚にぞっと背筋を震わせた。
　途中、風を孕んだ帆に何度かぶつかったおかげでまっすぐ甲板に激突することは免れたが、これはおろしてもらったではなく、落とされたと言うべきだろう。
　縛られたまま尻と肩で甲板に激突したテッドは、しばらくもんどり打って悲鳴をこらえながらごろごろと転がった。
「ちくしょう……誰が好きこのんでこんな船に」
　ぶつくさ言いながら、ごろりと仰向けになった途端、正面に剣を振りあげている女海賊の姿。
「ちょっと待て――」
　だが、キカは無表情にそのままテッドに向けて白刃を振りおろしてきたのだ。
　剣閃は二条。彼女は軍主同様、双剣使いだった。
　強く両目を閉じたあとにおそるおそる片目をあければ、自分を縛っていたロープがばらばらになってあたりに散らばっているのが見えた。
　ったく、海の人間てのはわからねえ。お節介でやたらと人あたりがいい賑やかな連中かと思えば、こうしていつでも実力行使。もちろん、この女海賊が誰かに笑いかけているところは見たことねえけどな。
　テッドは憮然としながらものろのろと立ちあがり、衣服の埃を軽く払った。
　そのあいだにキカはフォクスルデッキのほうへ淡々と淀みなく歩いていき、そこに溜まっていた海賊どもの仲間たちに声をかけられてそのまま話しこむ様子だ。テッドからの礼も悪態も特に興味なかったらしい。
　横でケネスが鉄筆を粘土板に当てて、こつこつと音を立てた。群島ではどうも紙が貴重らしく、すぐ消してしまうような覚書にはこうして粘土を固めて板にしたものを使っている。表面が文字で埋まったら軽く削り、繰り返して使用できるようになっているそうだ。
　ケネスはその板を睨みつけるようにしながら船内へ続くドアへと鉄筆の先をまっすぐ向けた。「そのままタイスケさんのところ行ってくれ。風呂掃除ご指名、入浴許可も下りてる」
　テッドは肩を竦めた。ようするに、潮風で冷えただろうから風呂に入ってよしということか。ついでに掃除していけと。
「聞こえたのか？」
「うるさい、話しかけんな」
　足音を立てて歩き出したテッドの後ろから、ケネスがやや声を落として呼びかけるようにしてきた。「おい、おまえの事情は知らないけどな。俺たちは戦争やってるんだ」
　そりゃそうだけどよ。「海賊と酒飲み連中ばっかりでな」
「……だが、冗談で人は吊るさないぞ」
　本気でむっとしたような声音に、テッドはさすがに肩越しに振り返った。
　ケネスは板を持ったまま不機嫌に眉を寄せ、腕組みして立っている。「ラズロが吊るすっていうときは本気で罰則だって言ってるんだ。反省してくれ」
「………」
　テッドは黙って、そのままドアをあけて船内に入った。

＊＊＊

　船でたっぷり風呂を楽しめるというのも贅沢な話だが、軍主のラズロは貴重な真水をきっちりしっかりこの風呂に割り当てていた。しかも常時沸かしておいて、いつでもみなが利用できるようにしてあるという念の入れようだ。もっとも、しょっちゅう海賊どもが暴れて誰かが海に叩き落とされ、人魚たちに救出されるか、シラミネかウゲツに釣られるかしているし、それでなくても、いまテッドが食らわされたような罰則は日常茶飯事。ずぶ濡れになったり、寒風でがちがちに凍りついた身体をすぐに暖められるのは風呂しかなかった。
　テッドはかじかんだ指でなんとか衣服を剥ぎ取り、すぐさま浴槽に飛びこんでその恩恵に与ったものだ。
　風呂施設の責任者であるタイスケは、どちらかといえばひょろりとした痩せぎすの男で、力仕事にも分類される風呂施設での仕事には腕力が足りないんじゃないかとも思える風貌だ。だが、こいつはこう見えて、しっかりとこの施設を維持していた。
　それでもやはり洗い場の掃除といった煩雑な仕事まではひとりでは手がまわらず、風呂の水を交換するとき、最後に入浴の順番を振られた者がその掃除業務を担うことになる。
　今回、テッドが特別に時間外の入浴として割りこんだので、彼はひとりで広い板間をモップで洗い流す破目になった。せっかくあったまったっていうのに、その作業をしているうちにもう、ほかほか状態は鎮まっちまったもんだ。まあ、先刻の冷えた状態よりは遥かにましだけどな。
　終わったからなと当番表の板目に一本棒をつけ加えながら風呂を出ていこうとすれば、タイスケは軍主に言付けを頼まれてくれと強引にその内容を伝えてくるものだ。そしてテッドが断わるまもなく、新たな風呂を沸かすための作業に専念しはじめてしまった。
　くそ、俺の船室は第四甲板、ラズロの部屋――つまり船長室は第一甲板だ。往復するのも面倒じゃねえか。しかも階段は急だし、暗いし、すれ違うやつがいりゃ身体が触れあうほどの幅しかねえ。しかも新兵なら走ってのぼれと、突つかれることしばしばだ。この船はでっかいが、乗っている人数も半端じゃない。ようするに、船の中をぼんやり歩いていりゃ、ほぼ半数の乗組員と顔を合わせずにはすまないんだよ。
　やたらと親しく関わりになる人間を作りたくない俺にしてみりゃ、こういう環境に対抗するには引きこもるしかないだろ。それを……なんだってこう、みんなお節介焼きなんだよ、群島人ってのは！
　しかし結局、テッドは船を上下に往復する必要はなかった。風呂施設の扉をくぐって、食堂、兼集会場の広い空間にのろのろと出ていった途端、真ん中にぐるりとめぐらされたカウンターの一角で、赤い鉢巻頭の軍主が皿の上に積み重ねた饅頭を前に坐っていたのが見えたからだ。
　テッドは大股にずかずかと歩いていった。そのかんにも、軍主の目の前にあったほかほかの饅頭の山はみるみるうちに標高を低くしていく。
　どうでもいいが、もうちっと時間をかけてよく噛めよ。饅頭まるごと飲みこんでるんじゃねえだろうな。
「おい」とテッドは足を止めるのと同時に軍主の背後から声をかけた。
　最後の饅頭をくわえながら無愛想な青い目が振り返ってくる。
　そのままわずかな沈黙。
　やがてもぐもぐと饅頭を食べる作業を再開したと思うと、それはあっというまに腹の中に収まっていた。すでにかたわらの皿には、なにひとつ残っていない。
「テッドか」とやっとラズロが相手を確認したかのように呟いた。
　……反応が遅えよ。
　テッドは溜息を抑えながら低く諦めにも似た気分で口をひらいた。「風呂の当番、俺が割りこんだもんだから変更が必要だと」
　それを聞いた途端、軍主の青い目がわずかに細まった。
　なんだ、とテッドが訝しく思うまもなく――
　どんっ！
　と彼の右手がカウンターを震わせる。木目に沿ってかすかにひびが入ったようだ。そしてその周囲にあった皿やカップが空中に躍りあがり、くるくると回転してそれぞれ床に落ちていった。まあ、下は板張りだから派手に割れたものはほとんどなかったけどな。だが、さすがにカウンターの中で立ち働いていた船員やコックたちがぴたりと動きを止めたものだ。
　なにかしらアテンションを促がすとき、この軍主はよくよくこうした暴力で表わすことが多い。無口で滅多に怒鳴ることがないからなんだろうが……テッドは引きつりそうになる口もとを抑えながら、じっと黙って次の軍主の行動を待つことにした。じつのところ、それはテッドがこの船に乗って初日で学んだことだ。そしてこの船の乗組員たちはすっかり慣れたもので、あたりがある程度鎮まって彼らの軍主が要望を呟くまで、ひたすら口を閉じて待つのが常。
　やがてラズロはテッドを見あげたまま口をひらく。「……ダリオ」
　は？
　テッドが疑問符を飛ばしたとき、彼の背後、カウンターの向かいのバーで焼き魚とイカ飯を同時に口に突っこんでいた男が顔をあげた。背は低いが肩幅も筋肉も半端じゃないほどの体格で、紐で縛るタイプの帽子をかぶってぼさぼさの髪の毛を押さえている。やかましい連中の中でも特に声の大きい海賊だ。
　彼は飯粒と無精髭を顔半分に散らばせたまま、きょとんと丸い目をまばたいた。「むが？」
　ラズロはまだ同じ姿勢のまま、つまりダリオに背を向けたままで、またひとこと、「連絡板」と抑揚のない声で言った。
　ダリオはまだしばらく、なにが起こっているのか、あるいはなにが起こりつつあるのかわからないといった表情だったが、やがて魚の尻尾をバリバリと噛み砕いて飲みこんでから、手もとにあったらしい薄い板を持ちあげた。「ああ、飯食ったあとで届けてやるって」
　そこでやっとラズロがダリオを肩越しに振り返る。ゆっくりと、無表情に。「………」
　青い目と出会った途端、海賊は蒼白になって飛びあがった。「すすす、すんません！　行ってきます！」
　味噌汁と箸と連絡板を抱えたまま、風呂のほうへと第三甲板をだっと駆け去っていく海賊。その足音が聞こえなくなってから、周囲の乗組員やコックたちも凍りついていた動きを再開しはじめた。テッドもようやくといったように息をつく。
　ようするに、当番変更の予定はすでにできあがっていたということか。でたらめに見えて、ラズロは意外にも完璧にこの巨大船を維持しやがる。軍主という肩書はともかく、船長を任される程度の能力はあるわけだ。これが例えばあのリノ・エン・クルデスだったら、船員の采配ひとつ、「適当にやっとけ」で終わっちまうもんな。
　ラズロはカウンターのバーに腰かけたままテッドに向きなおった。「まだなにかあるのか」
「いや――」と呟きかけ、だが、テッドは思いきって言った。「俺はいつ、この船を降りられるんだ」
　無表情に見あげてくる軍主の、きりっとした眉がわずかに寄せられた。
「次に近くを通った島でおろしてくれって、俺は言っただろうが」テッドはたたみかける。
　ラズロの表情はまったく変わらなかったが、どうやら記憶を探索することぐらいはしてくれたらしい。かすかに青い目が細められた。
　だが、それだけだ。なかなか目に見える反応が表われない。
　テッドはさすがに痺れを切らした。「おい」
「あれから……」とやっとラズロが声を出す。「寄港した島は、ない」
「だから、いつ俺は降ろしてもらえるんだって訊いてるんだよ」
　ラズロは無言で拳を口もとに当てるようにして考えこんだ。
　また長い時間が過ぎる。
　テッドはやがて、軍主の青い目がとっくの昔に空 (から)になっていた白い皿に注がれているのに気づいたものだ。
「………」眉を寄せて一瞬瞑目してから、テッドはカウンターのむこうにいた饅頭屋の女将さんに声をかけた。「カニ入り肉まん、五個」
「はい、どうぞ」とあらかじめ用意していたのか、彼女は皿に饅頭を山盛りにして、テッドではなく軍主の横に素早く差し出したものだ。
　ラズロは湯気を立てるそれらを見つめて、おもむろに頷いた。「……上陸できる島が、もうすぐ」
「よし」テッドはきびすを返した。

＊＊＊

　蒼い海、青い空、太陽は眩しく照りつけ、砂浜は真っ白。陸地の緑は濃く、花は色鮮やかだ。
　南国を絵に描いたような小さな島。
　たぶん果物は豊富だろうし、鳥もたくさん棲息している。きれいな海の魚は脂が乗っておいしいものばかりだろう。
　群島諸国と言うが、実際、こうした景色を堪能できる島はあまりない。複雑な海流に揉まれる中で、このような小さな島々はほとんどが岩だらけ、穴だらけのものばかりで、むろん海流と磯や浅瀬が入り組むそれらに船が近づくのも困難だ。
　だから上陸できる陸地となれば、どれほど小さな島であっても船乗りにとっては命綱である。
　というわけで、その小さな島に根性丸からボートを出してもらって白い砂浜に両足を着けたテッドだった。
　見渡す限りの南国の景色にぼうっとしているあいだに、背後ではボートを押して帰り支度に取りかかっている乗組員たち。
　テッドはジャングルのように無秩序に並ぶヤシの木の群れを睨みつけながら眉を寄せた。「ここはどこだ？」
「じゃあな、テッド、元気でやれよ」
「また船に乗りたかったら狼煙あげてくれよな」
　波音に紛れてかけられた声に振り返れば、ボートはすでに、沖合に停泊している根性丸のほうへと進んでいってしまっている。
「おい」とテッドは茫然と立ちすくんだ。
　足もとを小さなカメがのそりと通りすぎていく。それを追い越してカニが隊列を組んで横切っていった。
　明らかにこの島には……なにもない。それを確認するのに何日もかける必要はないだろう。うっかりジャングルに入りこんで妙なモンスターと遭遇するのもごめんだ。
　だが、砂浜には以前に漂着した誰かが不器用に作った小さな桟橋があるだけで、雨風をしのげるような小屋のひとつも見あたらなかった。東のほうを見れば、どう考えてもいいものなんかありそうにない暗い洞窟の入口がぽっかりとあいている。
　テッドは再び海のほうへと目を向けた。ボートはもう、波間に紛れてほとんど見分けがつかない。
「待てよ！」届かないだろうとは思いながらもテッドは叫んだ。「ここ、無人島じゃねえか！」
　確かに早く降ろしてくれと言ったのは俺かもしれないけど。
　そして確かに、このあたりにはここぐらいしか上陸できる島がなかったのかもしれない。
　けど、これはないだろ。
　こんな、なにもない島でどうやって暮らせというんだ。いくら人との関わりを避けているとはいえ……。
　いや、むしろこれは俺が望んだことなのか？
　誰かの死や運命を見届けることなく、人と別れる寂しさや悲しさとも無縁な、現実と隔離されたようなこの小さな世界……。
　確かに……いやいや、違う！　俺はべつに望んでなんかいない。
　てか、明るいというだけで霧の船とどう違いがあるというんだ。せっかく俺は――俺は……。
　テッドは唸り声をあげながら思いっきり髪をかきまわした。
　これはいじめか？
　あの無表情陰険軍主、俺をわざわざ霧の船から連れ出しておきながら、無人島にわざわざ放り出して……いや、それは俺が降ろせって言ったせいか。けど……けど！
「ちくしょう、わかった、わかったよ！」彼は両手を大きくあげて振りまわした。「頼む、一生のお願いだ、船に乗せろ、乗せやがれ！」

＊＊＊

　根性丸の甲板で、ハーヴェイがニコから奪った遠見鏡で無人島の浜辺を眺めていた。その隣ではシグルドが手すりの上で腕を組むように凭れ、苦笑を洩らしつづけている。
「あーあ、手旗も知らないんだな、あいつ」笑いながらハーヴェイが呟いた。「あんなに大きく腕をあげたら、さっさと行けって合図になっちまうってのに」
「もともと船乗りじゃないんだ、仕方がないだろう」
　その海賊たちの横では、軍主のラズロが腕組みをして無表情に同じ方向を見つめていた。
　ジュエルがその彼を振り返る。「どうするの？　どうせ、本気で無人島に放り出すつもりじゃないんでしょ」
「………」軍主は応えない。
　その背後から覗きこむようにケネスが囁いてきた。「おまえさ、もう一回、素直に仲間になれって言ってみたらどうだよ」
「………」
　無言のまま、ラズロはしばらく目を閉じた。
「ラズロは、お願いは一度しか言わないからなあ」とジュエルが溜息をつく。
　うん、と鉢巻をまいた頭が頷き、それから長いこと、海鳥の鳴き声がかすかに響いてくる青い波間をラズロは微動だにせず無言で見つめていた。

THE END.

家政婦 Series contents