After the legend

　海面は波立っていた。
　度重なる紋章砲のやりとり。海の紋章片に守られた船の装甲をも貫く砲の余波は、戦場となる海をたちまち荒らし、艦体を揺らす。空気は魔法の熱を徐々に含んでき、空にうっすらと暗雲を葺きはじめていた。
　その中でぽつぽつと在る、いくつもの艦影。敵は旧クールーク艦の外装を塗り替え、旗を取り換えて、なんの変哲もない海賊を装ってこの群島の海に入ってきていた連中だ。
　キカは第一甲板の上に立ち、不気味な白熱に侵されていく戦場を眺めると同時に、自分の船――グリシェンデ号の船員たちが報告してくる船体の状況を聞きながら唇を結んだ。
「機関部に被弾！」
「浸水は？」
「ありませんが――」
「使えんか」
　紋章砲は基本的に魔法の力だ。船体を損傷せずに機関部のみを黙らせることもままある。
　背後の艦橋(ブリッジ)、その中で怒鳴り交わしているシグルドやハーヴェイらの声が苛立たしげに漂ってきた。動けない船ではろくに迎撃もできない。
「ダリオの船は」キカは振り返らずに言った。
　それほど大きな声ではなかったが、風上からの彼女の言葉は艦橋のシグルドには聞こえたらしい。すぐさま、「まだ元気に走っていますが」と返ってきた。
「突出させるな」
　正義感溢れるダリオは、連中の紋章砲を奪うやりかたに非常に腹を立てていた。身内の者を傷つけられたりすれば特に、我を忘れるほど頭に血が昇る男だ。以前は息子のナレオがよく彼の暴走を止めていたものだが、そのナレオも最近ではめきめきと育ってダリオに似た狂戦士のように戦う海賊になってきている。
　純粋さと素朴さは海賊の長所だが、単純さとわき目も振らぬ暴走がそれに付随してしまうのは困りもの。
「返信！　『キカ姐にぶちこんだやつを許せるかってんだ、こんちくしょう』です」
　キカは黙って瞑目した。ひとつの大きな戦争をくぐり抜けて、あの男はひときわ気が大きくなったらしい。あのダリオを、あいつはよく足下に抑えこんだものだ。
　シグルドが艦橋から出てきてキカの隣に並んだ。「どうしますか、メシ抜きだとでも通達しますか？」
「あれだけ頭に血が昇っていれば無駄だろう」
「しかし、被弾したグリシェンデでは追いつけません」
「ジャンゴに言って、すまんがよろしく頼むと」
「諒解」
　シグルドが退がっていくと、やがて艦橋の中からハーヴェイの怒りの声が飛び出してきた。「あいつはまったく、何人に尻拭いさせりゃ気がすむ！」
　とはいえ、あのダリオの気質は海賊仲間には非常に好まれるものだ。ハーヴェイとて若い頃から船一隻で名乗りをあげ、突進していくことが常であったろうに。シグルドも冷静な相方としてハーヴェイと並べて称されるが、それでも熱くなればダリオとともに突進する。良くも悪くも、海賊とはそういうものだ。
　いま共同戦線を張っているジャンゴの一家も、似たような者の集まりだった。だが彼は、ダリオと違って敵が奪った紋章砲についてはそれほど興味はないらしい。ただ自分の目の届くところで荒らしまわっている他国の船が気に入らんと、それだけでこの小競りあいに参加してきたのだ。また、キカやダリオ同様、ともに群島解放戦争に参加した身でもある。気心は知れていた。
　キカの目の隅で、そのジャンゴが率いる数隻の船がそろって波の上を走っていくのが見えた。救援は可能な限りの戦力をもってあたる。海戦の基本だ。船の砲の向きは変えられないため、増援が多ければ多いほど、相手はいったん退却して戦列を立てなおす必要に迫られるものである。
　突進するダリオ艦の後方からきれいに艦列を並べ、ジャンゴの一家は砲撃を開始した。
　再び紋章砲の光が閃く。艦隊を包みこむほどに激しい光は、連鎖して虹色の幕を引くかのようで――
　ふとキカは、その耳にかすかな違和感を感じた。
　急速に空気が薄くなったような不快な耳鳴り。
「……なんだ？」
　空を見あげれば、薄く覆っていただけの黒雲が厚く、そして一点へと引き寄せられるように渦を巻きはじめている。
　中心のその真下は、激しく紋章砲の交換をしている船の集団。
　キカは艦橋を振り返って叫んだ。「ジャンゴに退(ひ)かせろ！　ダリオもだ！」
　なにが起こるかわかっていたわけではない。ただ本能的な予感だ。
　やがて虹色の幕で覆われていた戦場の中に黒い靄のようなものが現われた。それは赤とも金色ともつかない光の波動を発しながら徐々に大きくなってくる。
「あれは――」キカの背後でシグルドが喘いだ。
　ハーヴェイが艦橋から飛び出してきて甲板の手すりから身を乗り出す。「エルイールのときと同じじゃねえか――やべえぞ、戻れ、ダリオ！」
　二年ほど前の群島解放戦争、その最終決戦の地で起こったエルイール要塞の大爆発。空を切り裂くほどの紋章砲のエネルギーの暴走――いや、実際、あれは空間が切り裂かれていたのだろう。要塞とその周囲に集まっていた艦隊、それを呑みこまんと、巨大に膨れあがったあのときの爆発。この世界に穿たれようとする亀裂とも言える歪み。
　ダリオもジャンゴもあの現象をよく知っているはずだった。なにが起こっているかはすぐにわかるだろう。だが脱出が間に合うか。そしてこの亀裂が、またあのときのように際限なく膨れあがるとしたら――今度は誰が止められるというのか。
　あいつはもう、いないのに。
　黒雲は濃く深く、その重量で空を落とそうとするかのように育っている。海上に現われた亀裂はドームのように結界を形成し、じわじわと確実に大きくなって、すでに敵艦隊の何隻かを呑みこんでいた。ジャンゴの艦隊は転針に入りかけたところ、ダリオの船もその列に紛れこんでいる。
　だが間に合わない。キカは歯を噛みあわせ、大きく顔をしかめた。
　と――
　荒ぶっていた波がひときわ大きく、グリシェンデ号をも押し流すように盛りあがった。
　キカもさすがに手すりを掴み、転倒をこらえなければならなかったほど艦体は大きく揺れる。
　そして異空間の軋みばかりが不協和音として届いていたキカの耳に、別の音が割りこんできた。
　悲鳴とも、嘆きともつかぬ甲高い《声》。
　キカは顔をしかめたまま天を仰いだ。
　紋章砲の熱に呼び寄せられていた暗雲が大きく渦巻いていて、その中心に赤黒く、だが輝く光がまっすぐ昇っていく。
　まるで雲を散らすようにその光が広がり、白く輝く天使が一瞬、姿を現わした。
　本当に一瞬のこと。次には目もあけていられないほどの強烈な光を放つ。
　キカも手で目を覆い、それでも瞼を強く閉じなければならなかった。
　耳を聾するほどの風鳴り。高く低く、空を、海を震わせる。
　それはまるで、人間たちの小賢しい争いにいらついた龍の咆哮のようでもあり――
　そしてその残響が最後の波のように背後へ遠ざかっていったとき。
　目をあければ青空と凪いだ海ばかりが広がっていた。
　ジャンゴの艦隊やダリオの船は置いていかれたかのように取り残されていたが、あの亀裂に呑みこまれていた敵船の姿はない。不気味に膨れあがっていたあの黒い歪みも、その上にわだかまっていた黒雲も、すべてが跡形もなかった。
　何事もなかったかのような平穏な海。
　いままでなにをやっていたのかも忘れ、グリシェンデの船員の誰もがしばらく動かなかった。呻き声ひとつ、溜息ひとつも洩れやしない。
　やがてシグルドが、遠慮がちに身を寄せて囁いてくる。「キカさま、いまのは……」
　言いたいことはわかる。もしかしたら。まさか。期待と戸惑い、怖れと希望。
　かつて何度も聞いたあの《声》。見覚えのありすぎる断罪の天使。
　時が来ればいつかは目覚める。それまで眠らせてやろうと言ったのは誰だったか。
　ただ悲しみに暮れる仲間たちへの励ましの言葉であったはずなのに。
　ハーヴェイが困惑と茫然とごちゃ混ぜの顔で振り返ってきた。「どう……します？」
「さて……」キカは目を細め、すっかり晴れた空を見あげた。
　慰めと希望に基づいた曖昧な予言。それでもいつかと、そう心のどこかで期待していた自分がいたのだと、思わず笑みが洩れる。
　だがそれにしても、ずいぶんと早い復活だ。
　あるいは、あの光はただの寝言か、それとも――
「いずれにしても、あいつはまだこの海を守っているということだろう」
　シグルドとハーヴェイはそれぞれゆっくりと頷いた。
「僚船の確認を。本艦も点検と点呼だ、急げ」
「はっ」
　そうして部下たちがようやく駆けまわりはじめる。
　その中でキカは、甲板に立ったまま微笑を抑えずにいることにした。

＊＊＊

　――空かな。
　久しぶり。
　ぼんやりとそんなことを考えながら彼は起きあがった。
　周囲は海の青。自分は小さな船に横たわって眠っていたらしい。
　舳先に海鳥が一羽、止まっていた。
　彼が身じろぐと、それはぱっと飛び去っていく。
　船の中にはほとんどなにもなかったが、オールがひと組、きちんとまとめられて船体に留められている。
　いつか自分が目覚めるのを予想したのだろうか。帆もないボートではあるが、鳥が飛んでいたところをみると島は近い。
　そして実際、穏やかな水平線はぐるりと周囲をかこんでいるものの、その一点にうっすらと島影も見える。
　とりあえず、あそこに上陸してみようか。
　オールに手を伸ばそうとしたところで、彼はもうひとつ、果てのない青い世界の中で動くものを見つけた。
　――船。
　白と赤の帆を広げて、それはゆったりと海原を横切っていくところだ。
　彼は立ちあがり、ゆっくりと手をあげた。
　大きく横に振ってみせれば、甲板にいるらしい船員がひとり、手を振り返してきたようだ。
　蒼い空、青い海、そして船と人。
　ぼくはどのくらい眠っていたんだろう。
　けれど、この海は変わっていないらしい。
　彼は大きく息を吸いこんだ。